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2012年5月20日 (日)

目次下書き

新川県における小学校用教科書に関する調査

Ⅰ.新川県における小学校用翻刻教科書

A.学制期の小学校用翻刻教科書に関する基礎知識

B.新川県における小学校用翻刻教科書概要

1.「新川県小学校教則」制定以前(明治6年)

2.新川県が翻刻申請した教科書(明治6-7年頃)

3.「新川県小学校教則」の翻刻教科書(明治6-7年)

4.「明治8年新川県治一覧」の翻刻教科書(明治8-9年)

5.メモ

C.附録

1.新川県時代の小学校用翻刻教科書解題

2.翻刻・出版人のプロフィール


Ⅱ.新川県における小学校用手引書

A.学制期の小学校用手引書に関する基礎知識

B.新川県における小学校用手引書概要

1.学制期前半

2.学制期後半

3.メモ

C.附録

1.新川県時代の小学校用手引書解題

2.新川県時代の小学校用翻刻教科書との関係図

3.編集者・著者のプロフィール


Ⅲ.新川県時代の小学校用教科書関連年表

2012年5月16日 (水)

目次下書き

新川県における小学校用翻刻教科書と手引書に関する調査


Ⅰ.学制期の翻刻教科書に関する基礎知識


Ⅱ.新川県における小学校用翻刻教科書概要

A.「新川県小学校教則」制定以前(明治6年)

B.新川県が翻刻申請した教科書(明治6-7年頃)

C.「新川県小学校教則」の翻刻教科書(明治7年)

D.「明治8年新川県治一覧」の翻刻教科書(明治8年)

E.「新川県学規」の翻刻教科書(明治9-11年頃)


Ⅲ.新川県における小学校用翻刻教科書の手引書概要

A.新川県時代前半期

B.新川県時代後半期

C.石川県併合初年


Ⅳ.史料解題

A.現存する新川県時代の翻刻教科書解題

B.現存する新川県時代の翻刻教科書の手引書解題


Ⅴ.新川県時代の小学校用教科書関連年表

2012年4月 6日 (金)

物理階梯

「物理階梯」には明治6年新川県学校蔵梓版が存在する。現在,「新川県学校版」と冠した教科書としては,「地理初歩」の存在が広く知られているが,この「物理階梯」に言及した文献については,少なくとも筆者は未見である。

Englis Readers, for Primary Schools

富山の中田書店は,明治37年に4巻本の

English Readers, for Primary Schools.

を実際に刊行していることがわかった。同書は現在国教研に所蔵されている。

したがって,以前書いた関連記事はそのように訂正したい。

2012年4月 1日 (日)

新川県小学校教科書関連年表

西暦 和暦 月 日 事    項 ソース
1869 2   
1870 3   
1871 4 7 18 大学を廃し,文部省を設置する。 太政官(布)
  9 - 文部省,省内に編輯寮をおき,教科書等の編集・翻訳に着手。この編輯寮は翌5年9月に廃止されたが,翌10月に教科書編成掛を設け,6年3月にはこれを編書課と改めた。
  11 20 新川県発足 太政官(布)
  11 25 全国各府県の学校を文部省の管轄下に置く。 太政官(布)
   - 文部省,師範学校に編輯局を置き,小学校教科書の編集に当たらせる。この編輯局は6年5月に廃止され,その事務は文部省の編書課に合併された。7年10月には編書課を廃止してその事務を報告課に移しているが,これは小学校教科書の編集が一段落をとげたためと考えられる。
1872 5 1 13 出版条例改正 文部省無号
  6 24 太政官,文部省提出の「学制」を認可。 「学制百年史」
  8 2 太政官,「学事奨励に関する被仰出書」を布告。初等教育は各府県に一任。 太政官第214号
   3 文部省,「学制」を頒布。新川県は第3大学区に属する(翌年第6大学区に改正)。「学制」の教科編成をとる学校を「正則小学」,とらない学校を「変則小学」と定めた。なお,尋常小学すなわち正則小学である。 文部省第14号
  9 8 文部省,「小学教則」を頒布し,各教科の教授要旨とともに教科書を例示。 文部省番外
   27 七尾県のうち越中国を新川県に移管。 太政官第291号(布)
  10 - 文部省,教科書編成掛を置く。 文部省達
  11 10 文部省,「小学教則概表」を公布。 文部省番外
1873 6 1 - 新川県,「新川県告諭」を公布し,小学校の設立を促す。学制実施の本県最初の告諭。 「新川県誌稿」
   12 藤井能三,伏木小学校の「小学校取設伺」を提出。
   17 文部省,学区取締の氏名届出を奨励。 文部省第6号
   - 「伏木小学校教則」を定め,明治6年12月の「新川県小学校教則」の制定まで用いる。「伏木小学校教則」は「伏木小学校規則」「小学生徒心得」「小学課業表」よりなる。「小学課業表」は「山代村小学課業表」,「京都府小学課業表」(明治3年),さらに大学開成校「中小学規則」(明治3年)に遡る。藤井能三は県学務係として学校設置にあたったため,「伏木小学校教則」は呉西地区で広く用いられた。また,藤井は教科書の立替購入も行ったので,教科書も各校に共通している。 「富山県教育史」
  2 - 師範学校,「下等小学教則」を制定し,使用教材,教科書を指定。
   16 伏木小学校開校。なお,「学制」の規定では変則小学に分類される。
  3 - 新川県,旧富山県所蔵の古書を売却し,小学課程に必需の本を購入し,貧しい生徒に貸与する。 「新川県誌稿」
   - 文部省,「小学読本」(通称田中本)刊行。文部省最初の国語教科書。巻1~巻4は,明治6年3月から6月にかけ師範学校彫刻として刊行。明治7年8月に改正。巻5は明治8年,巻6は明治9年にそれぞれ刊行。
  4 5 文部省,小学教則のうち算術は和洋いずれも認める。 文部省第37号
   10 7大学区制に改正。新川県は第6大学区に属する。 文部省第42号
   29 文部省,「小学校用書目録」を公示。文部省および東京の師範学校で編集出版した教授用掛図や教科書などを追加。「地理初歩」(師範学校彫刻・13丁)含む。これが新川県が最初に刊行した「地理初歩」翻刻本(明治6年12月刊行)の元本だったと思われる。 文部省第58号
  5 - 師範学校,「下等小学教則」を改正。
   - 師範学校,「上等小学教則」を制定。
   10 文部省,小学教科書中文部省蔵版の分を払い下げる。 文部省第66号
    文部省,文部省版教科書の翻刻を許可。 文部省第68号
   19 文部省,「小学教則」を頒布。 文部省第76号
   31 文部省,師範学校の小学教科書編成事務を文部省に合併する。 文部省達
  6 5 師範学校,「小学校教則」を一部改正し,あわせて上等小学の教則を発表。
   - 文部省,「小学読本」(通称榊原本)刊行。最古の例言は明治6年6月。第1巻から第5巻の5巻本。のちに首巻から第1巻~第5巻の6巻本。
  7 13 新川県,「新川県学事取調書」を文部省に上申し,あわせて管内に布達。学区と学校の設置計画,変則小学対象の「丙・丁村落小学教則」を含む。「丙・丁村落小学教則」は主として文部省制定の教則をモデルとする。 「新川県誌稿」
   - 新川県,県の学区取締氏名を文部省に報告。
   27 文部省,翻刻許可書目発表。同省版権の物19種について願い出により「地方官」に無償で翻刻を許可。東京師範学校版の教科書を追加。 文部省第107号
  8 12 東京師範学校刊行の「小学読本第3巻」の使用を当分禁じる。 文部省第109号
  9 - 新川県講習所,「小学生徒心得」刊行。10月2日の開設日より早い。
  10  文部省,旧陣屋,官有土蔵を校舎として無償払下げを指令。 「富山県教育史」
   2 新川県小学教員講習所開設。 「新川県誌稿」
  11 - 文部省,中学区に正式に番号を付ける。本県は第9番から13番。 「富山県教育史」
    新川県学校,「物理階梯」刊行。 金沢市立図書館近世史料館蒼龍館文庫蔵書
  12 8 文部省,小学教科書中刷行を許す書目を9組追加し示す。 文部省第140号
   - 新川県,「新川県小学校教則」(「下等小学教則」)制定。主として師範学校制定の教則をモデルとする。教授要旨において使用教材・教科書を指定する。なお,この教則前文には「追テ小学読本ヲ編制シ」とあり,県内ではこの時点で「小学読本」の翻刻本が刊行されていなかったことを示す。また,「地理初歩」も同様の扱いであり,未刊だったことがわかる。 「新川県誌稿」
   - 新川県学校,「地理初歩」刊行。13丁。 県立図書館蔵書
1874 7 1 - 師範学校,「下等小学教則」を改正。
  2 24 小学教科書のうち東京開成学校同師範学校蔵版の分を払い下げ。 文部省第6号達
  5 - 文部省,「小学読本」(通称榊原本)を改正し,第1巻より首巻を分離し6巻本とする。新川県時代に刊行された河上章著「小学読本名称訓」は,この榊原本の手引き書であることから,新川県ではこの国学者榊原芳野らが編輯した榊原本が先に翻刻刊行されたと思われる。
  8 - 文部省,「地理初歩」改正。12丁。これが真田善次郎蔵版「地理初歩」翻刻本の元本。
   - 文部省,師範学校編輯「小学読本」(通称田中本)を改正。田中本の手引き書である川波友太郎編輯「改正小学読本名称訓」の県内での刊行は,石川県併合後であることから,この田中義廉らが編輯した翻訳調(ウイルソンリーダー)教科書の翻刻本の県内での刊行は,榊原本よりも遅かったと思われる。ただし,「富山県教育史」は,田中本の方が明治25年頃まで長期に使用されたとしている。
  9 30 府県に対し、中・小学校校地として官有地の無償提供を指示。 太政官第131号達
  10 - 文部省,「小学入門甲号」刊行。明治6年2月師範学校制定の「小学校教則」で指定された教具懸図類の縮刷版である。
   14 文部省,文部省蔵版のうち翻刻許可書目を修正拡大。開成学校・東京師範学校版を加え46種とする。 文部省第25号布達
  11 - 文部省,「文部省雑誌」に「文部省版書籍府縣翻刻之数」を掲載。新川県は「輿地史略」「物理階梯」「単語篇」「算用九々図」「乗算九々図」「加算九々図」「五十音図」「連語図」「形体線度図」「地理初歩」「小学算術書」の翻刻を申請。 「文部省雑誌」明治7年第22号
1875 8 1 8 学齢を満6歳以上満14歳までとする。それまでは満6歳以上満13歳までと規定。 文部省第1号布達
   - 文部省,「小学入門乙号」刊行。明治7年10月刊行の甲号の縮刷版として。
  1・2 - 新川県下にて文部省編纂「小学読本(榊原本)」の翻刻版刊行。新川県下で刊行された榊原本「小学読本」には,各巻単独の版(首巻は明治8年1月・賛化堂・17丁,第2巻は明治8年1月,第5巻は明治8年2月,首巻および第2巻の見返しに「新川県管内結城氏竹内氏翻刻」と記載,第5巻には同記載はなく,守川聚星堂・土井文昌堂・大橋求古堂蔵とある,首巻は筑波大学所蔵,第2巻と第5巻は富山県立図書館所蔵)と,合本版(「首・1・2」「3・4ノ上」「4ノ下・5」の3冊,単独版の見返しの記述は無いが,使用法の附言がある)が存在する。 県立図書館蔵書
  4 5 小学校に限り1校を2校に分けて設置することを許し,敷地は400坪までを下げ渡すことを通達。 太政官第46号達
  5 - 県学務課が独立。太政官布達「県治条例中改正」による。 「富山県教育史」
  6 19 文部省,文部省蔵版の教科書はすべて翻刻を許可。民間出版者にも認めた。 文部省第9号布達
   - 新川県小学教員講習所を新川県師範学校と改称。 「新川県誌稿」
  8 30 学校敷地連区一校を建るもの制限の坪数合与及官地官林を売与して学田に供することを許す。 〔太政官〕達
  9 3 出版条例更定。「版権」という用語の初登場。 太政官布告第135号
  11 - 県第五課を廃し再び学務課と改正。 「富山県教育史」
  - - 新川県,「下等小学教則表」を改正し,「改正第二号下等小学教則表」を定める。 「富山県教育史」
1876 9 4 - 新川県は第2大学区に属する。 「富山県教育史」
   15 新川県,「新川県学規」を制定。教育会議も定める。明治10年頃までこの教科課程を使用(文部省第4年報)。
   18 新川県,石川県に併合。 太政官第53号布告
  8 - 石川県,教育会議制を定める。 「富山県教育史」
1877 10 8 - 師範学校,「下等小学教則」「上等小学教則」を改正。
1878 11 5 - 文部省,「小学教則」を廃棄。文部省は府県申請の教則をほとんどそのまま認めるようになった。このため地方はまったく独自に教則を定めるようになり,様々な修養年限を持った教則が12年頃まで全国で乱立した。 「富山県教育史」
  7 22 「郡区町村編成法」布告。郡区制発足。 太政官第17号布告
1879 12 1 7 石川県,「小学科準則」を定める。
  6 - 石川県,学区取締関係規則を廃して石川県学事通則を制定。 「富山県教育史」
  9 29 「学制」を廃し,「教育令」を制定。いわゆる「自由教育令」である。 太政官布告第40号
1880 13 3 25 文部省,教科書編集局を設ける。 文部省号外達
  12 18 文部省,質の悪い教科書を指摘・公示し,使用を禁じる。 文部省第21号達
  12 28 「教育令」改正。いわゆる「干渉教育令」である。 太政官第59号布告
1881 14 5 4 「小学教則綱領」教授要旨のみを示し,それによって教科書を編集する。 文部省第12号達
  5 9 文部省,教科書の開申制度(府県管内で使用の教科書を文部省へ報告させる)を定める。 文部省第16号達
1882 15   
1883 16 7 31 文部省,教科書の「認可制度」を示達。 文部省第14号達
1884 17   
1885 18   
1886 19 4 10 「小学校令」の公布とともに検定制度を定める。 勅令第14号
1887 20 12 29 版権条例制定。 勅令第77号

2012年3月10日 (土)

新川県時代の小学校教科書

ここ数日,明治初年の越中人が英語を学んだ手段を探るために,新川県時代(明治4~9年)の小学校の教科書を調査している。

当時の小学校は8年制で,下等小学4年,上等小学4年の後,中学校や外国語学校,そして慶応などの私学に進学した(慶応は13歳から入学可)。まだ大学は存在せず,外国語学校の専門課程が官立の最高学府であった。

学制頒布の明治5年以降,10年代までの教科書としては,従来の往来物や翻訳読み物に加え,文部省および師範学校が編纂した教科書の地方翻刻版が広く用いられた。

「明治8年新川県治一覧表」には当時の官許出版物が26冊(重複分を含む)記載されているが,うち22冊までが小学校の教科書と関連書であった。その内訳は,7冊が出版書目,3冊が版権書目,そして残り12冊が翻刻書目である。

「出版書目」は出版条例に従い出版免許を得た出版物,「版権書目」はこれに加え版権免許を得た物であるという,出版に伴う手続き上の違いはあるが,内容的には県独自あるいは個人による,比較的独創性の高い教科書である点が共通している。いっぽう「翻刻書目」は,文部省発行の教科書を原形を変えずに翻刻したものであるが,県版は読みやすいように印刷上の改良が加えられているものが多い。

ちなみに,「版権免許」が出版条例に規定されたのは明治8年9月の改訂版からで,これ以前に出版が認可された出版物のとびらには「版権」の文字はない。また,この改訂以前は,出版願いは文部省に届け出ることになっていたが,改訂以降は地方庁(県庁)を通じ内務省に届け出ることに改められた。したがって,明治8年版である「県治一覧表」の出版書目には,この改訂前後の出版物が混在している。

なお,出版免許は実際に書物ができていなくても,概要を記した書面のみで認められた。また,出版免許の申請は必須であったが,版権免許の申請は任意であったので,「版権書目」に分類されていることが,ただちに明治8年9月以降の出版物であることを意味するわけではない。

また,「県治一覧表」には,免許のみで実際には出版されなかった書目が記載されている可能性がある。加えて,免許から実際の出版までには相当の年月がかかることが多かったため,とびらや奥付には「新川県」の文字があっても,石川県に吸収合併させられたのち(明治9年4月以降)に出版された物が相当数あることに,十分な注意が必要だ。

新川県で発行された小学校教科書には,その多くが下等小学を対象としたものであり,英語に関する情報を含んだ物はなかった。ただ,文部省編纂の「小学入門」と同様,ローマ数字が含まれている。これは時計盤の読み方を教えるためのものである。

残念ながら,新川県時代の小学校教科書にアルファベットを見ることはできなかったが,調査の過程で,自分が持っているある教科書が,確かにこの時代に県下で刊行された物であること,そしてひょっとしたら全国でも一冊しか現存しないらしいことがわかった。それがちょっとだけうれしかった。

2011年8月29日 (月)

明治5年慶應義塾入社?

先生

先日お尋ねの件ですが、当該人物は明治8年3月1日に慶應義塾医学所に入所しています。入所時の年齢は22才7か月で、慶應義塾医学所は13~15才から入所可能でしたから、入所者としては比較的高齢ですが、今のところ入所前の経歴は不明です(慶應義塾本科にも入社の記録はありません)。

この慶應義塾医学所は明治6年10月に三田で設立され、明治13年6月に廃校となっています。修業年限は本科40か月、予科15か月で、当該人物が全課程を納め得たとしてもギリギリのタイミングです。また、この医学所を「卒業」しても、東京大学医学部と違ってただちには医師免状を得ることはできませんでした。

しかし、当時は、学歴が最低1年半ありさえすれば、誰でも医術開業試験を受けて医師になれました(済生学舎などはそのための予備校です)。当該人物については、やはり東大学医学部(本科)の卒業生名簿には名前がありませんので、廃校と同時に東大学医学部別科に入学したか、直接医術開業試験を受けたのどちらかと思われます(年齢的にも後者ではないかと…)。

ちなみに、当時は東大医学部(本科)ではドイツ語が必修で、入学そのものが大変でした。慶應義塾医学所は英語で履修できることから、一時期大きな人気を集めました(入所者延べ300名程)。しかし、残念ながら実習施設は貧弱で、その後官立・公立の医学校が多数設立されたことから、学校経営に行き詰まりの兆しが見え、福澤諭吉はあっさり廃校を決意したとのこと。ただし、最後の卒業者が出るまでは維持されていたとも言われております。

以上『慶應義塾入社帳』『慶應義塾百年史』等参照

2011年4月25日 (月)

根室英語学校(明治22年~29年) その3

根室英語学校の様子については、佐藤喜代吉の「北海道旅行記 明治23年」(『根室市史史料編』渡辺茂編著、根室市、1968年刊行)にわずかだが記録がある。以下関係か所を引用しておく。なお、英語教育に何らかの関連がありそうな部分も含めた。

「学校には公立花咲小学校、私立根室学校、英語学校等あり、花咲小学校は明治9年の創立に係り高等、尋常、簡易の三科を授け生徒五百名を有す本道東部第一の学校なり、根室学校、英語学校も亦頗る隆盛なるを見る、青年組織の一団体あり名けて(ママ)根室青年学友会と云ふ毎週一回演説若くば討論の会を開き智識交換を以て目的と為せり、基督教主義の学校に愛隣学校なるものあり洋婦人カーペンター之が教授を司ると云ふ、

「教育 公立花咲小学校は明治9年の設立にして尋常及び高等の二科を授く尋常科生徒338人(内男216、女122)高等科生徒85人(内男72、女13)を有す、本道東部第一の大校にて分校二あり一を幌茂尻分校と云ひ一を弥生分校と云ふ…(中略)…和田村に第一、第二の小学校あり…(中略)…、私立根室英語学校は常盤町に有り根室有志者の設立に係り昼夜英語学を教授す生徒幾んど一百名に及ぶ、根室女子小学校は僧侶諸氏の設立に係り現今緑町に有り生徒一百名の上に出づ、根室市内又教育衛生会の設けありて毎月例会を開き教育衛生の振興を計り、女子教育会の設けありて時々教育上の談話を為す、其他史学研究会、簿記学講究所の設けありて学事は日に月に盛なるを見る殊に花咲小学校は書籍数千巻を有して地方有志者の便覧に供するなど北海の辺陬文事の隆盛を想察せしむるものあり又同校にては毎年春秋二季に於て盛なる運動会を挙行し以て学生の体育を鼓舞するに怠たらずと云ふ。

別資料に愛隣学校では主に英語を教えたとある。また、ここでは根室英語学校が昼も授業を行ったとあるが、他の記録と整合しない。

2011年4月22日 (金)

根室英語学校(明治22年~29年) その2

例によってこの「北海道教育史」の記事には注釈が無く、出典はよくわからないのだが、おそらく「北海道教育会雑誌」(明治24年3月~25年8月)か「北海道教育雑誌」(明治25年9月~明治40年4月)あたりか。特に、せっかく教師名が出ていながら一部フルネームでないのは残念であるが、出典にも記述はないに違いない。

また、根室実修学校についての記述は、同校の教師の一人で、クラウン・リーダーの実質的な著者であった長岡拡の追憶と遺稿を集めた「長岡教授の面影」(三省堂、昭和7年刊行)に依っているようだ。

それはともかく、「北海道教育史」においては、根室英語学校は明治前半期の英語学習ブームに乗って設立された夜学の各種学校で、根室における中等教育機関設立の先駆けとなったとされている。この解釈については大筋では特に問題はないと思う。しかし、細かないくつかの点では検討の余地がある。

まず第1に、松岡勇記が英語学校の設立を主唱し、また自ら教えたことについてである。松岡勇記といえば、洋学史に関心のある者なら知らない者のない有名人である。福澤諭吉の親しい友人の一人で、適塾における福澤の同窓生(「福翁自伝」に登場する)にしてオランダ人医師マンスフェルトの高弟。当代一流の医師であり、当時の根室における最高の文化人の一人であったことは確かだが、あくまでも蘭方医であって、少しは英語の知識があったにしても必ずしも得意ではなかった。

第2に、松岡と共に英語を教えたとされる山本利輔、柏谷亀五郎、そして高橋という人物については、どのような英語の学習歴があり、どの程度の力があったものか。正副会長の道庁理事官広田千秋、同属伊阪員正については、当時よくありがちだった名誉職に過ぎず、自ら英語の授業をしたとは考えられない。

ちなみに、伊阪の上司には富山県士族(?)で札幌農学校第三期卒(明治15年)の赤壁二郎がいて、ここには名前は出てこないが根室支庁の役人中きっての英語使いであり、英語学校との関係が気になる。

第3に、根室英語学校を経営面で支えたとされる日本郵船会社出張所支配人山田秀治のプロフィールも不明である事に加え、新進実業家の山縣三郎の登場が、やや唐突すぎると思われる。なぜ同時期に二つの英語学校が設立されたのか。その必要があったのか。

実は日本郵船の資料を見ても、明治20年前後の日本郵船会社の北海道内の出張所長あるいは支店長クラスには山田秀治という名はなく、山田は山田でも山田季治(すえじ)の誤りではないかと思われるのだ。

山田季治は福澤諭吉の縁者で、若い頃教育者としてのちの著名な英語研究者を育てると共に、日本郵船を退社後ジャパン・タイムズの初代社長となった人物。この頃は北海道内の支店を任されており、根室の有力な実業家たちとも交流があった。

一方、根室実修学校の最初の英語教師は同志社の出身で塚本という姓であるが(「長岡教授の面影」)、それ以上は現在のところ不明である。長岡拡を含め、同志社からの英語教師の招聘は、山縣の縁故によるものともいうが、いつもながらこの手の話はどうもわかりにくい。

2011年4月20日 (水)

根室英語学校(明治22年~29年) その1

明治22年から29年にかけて、北海道東端の町根室に根室英語学校という私立の各種学校があった。その概要は以下の通り(「北海道教育史 地方編一」北海道立教育研究所編、昭和30年5月刊行、pp.1001-02より引用)。

「開拓使根室支庁についで明治15年には根室県庁、同19年には北海道根室支庁と、道東行政の中心になった根室町は文化においても札幌・函館におとらず、殊に欧米文化摂取の時代の流れとして英語に対する関心が高まり、公立根室病院長松岡勇記、山本利輔、柏谷亀五郎の三氏が首唱して明治22年1月英語講習会が誕生した。

「常盤町三丁目の根室町会所を仮校舎として道庁理事官広田千秋、同属伊阪員正を正副会長に、柏谷・松岡・山本・高橋の四氏が幹事となって、昼間学修のできない人々のため毎夜英語を教えたのである。

「同年11月、日本郵船会社出張所支配人山田秀治(ママ)が別に根室英語学校を創立したが、後両者の話合で合併し、山田が校主、柏谷・山本が幹事となって再出発した。しかし、私学の経営は容易なものでなかったので、当時根室を地盤にして産業に海運に七面八臂(ママ)の活躍をしていた快男児山県勇三郎(後にブラジルに移住した)が校主をかって出て明治24年から学校経営を引受けた。

また、同校の後継校として根室実修学校が創立された。

「(根室英語学校は)明治28年の大火で校舎を焼失してしまったので、同29年花咲町5丁目に新校舎を建てると同時に、夜学を廃して昼間授業の根室実修学校と改称した。これこそ道東唯一の三年制私立中学校であった。その学校の校長は柏谷亀五郎で、専任教師は早川万・森拡(長岡)・塚本・吉永・村井、嘱託教師に三浦保太郎・久下市十郎・米川虎吉があった。

「この学校は明治35年3月31日で廃止したが、東端に偏した根室において進歩的な学風をもち、民主的な教育を施した。京都同志社を中退して、20才の若さで山県に招かれて根室にやってきた長岡拡(後の東京商大教授)や帝大出身の根室病院長米川虎吉の感化は大きかった。

「根室実修学校は簡易中学校であったので上級学校を志すものは東京へ出て中学校5年の編入試験を受けなければならなかったが、殆んどがパスしたという事であり教育の水準は高かった…(中略)…こうして此の学校は中等教育施設設置への過程における重要な使命を果したのであった。

2011年1月29日 (土)

函館丸船長森本弘策

明治8年5月7日、ロシアと日本の間で樺太・久里留交換条約(いわゆる樺太・千島交換条約)が調印された。

これに伴い、新領土となった久里留諸島の実況を把握して急ぎ経営方針を策定することが、日本政府にとって当面最も重要な課題となった。そこで翌年1月14日、日本政府は久里留諸島を千島国に編入・改名して、新たに得撫、新知、占守の三郡の設置を決定したのを機に、同地に開拓使の長谷部辰連・時任為基を団長とする調査団を派遣して、地形・地質・物産・人口・風俗等の実態調査に当たらせた。

このとき、特に選ばれて遠くカムチャッカ半島手前の占守島まで調査団を案内し、港湾および海峡の水深や海底地形の調査・測量の任に当たったのが、当時開拓使附属船函館丸の船長を務めていた森本弘策なのであった。

森本の手堅い仕事ぶりは、この調査の報告書である『明治九年千島三郡取調書』から読み取ることができるが、それにしてもこのような重要任務を任せられ(前年末の玄武丸派遣による千島列島の受渡手続は濃霧により中途半端に終わった)、かつては開拓使仮学校(札幌農学校の前身校)の算術教師に選ばれ、あるいは富山藩変則英学校の英学教師をも勤めた人物の、『説夢録』における、敵意からとも取りうるほどのあの粗末な取り扱いは、いったいどうしたことであろうか。

2010年9月 8日 (水)

林好一郎の父

以前城端東新田町出身で、明治14年頃慶應義塾に学んだ林好一郎という人物のことを書きましたが、最近になってその父親の事について情報を寄せていただいたので、ここに書いておきたいと思います。

知らせていただいたのは、善徳寺元宝物館長の斎藤氏です。筆者が同寺を訪れたのは半年以上前のことですが、この間ずっと調べていただいたのでしょうか。見ず知らずの訪問者に寄せられた過分なご厚意に、心より感謝いたします。

さて、斎藤氏によれば、『城端時報』の昭和33年3月号に、「林庄平」という人物について書かれた記事があるとのこと。『慶應義塾入社帳』には、林好一郎の父親は林庄兵衛と表記されているものの、記事の内容や時代から推して、同一人物であることはまず間違いないと思われます。

この記事によれば、現在はなくなりましたが、かつては城端東新田町の西隣に瀬戸町という十数軒ばかりの小さな町があり、林庄平氏はこの町の南端に住んでいたといいます。この瀬戸町は日稼ぎの人が多く、決して裕福とは言えない町でしたが、林庄平氏は「明治の初め頃に町長として才腕をふるった」「異例」の存在であったとのことです。

恐らく金沢藩の士族ででもあったのであらふが言葉に可成りの金沢訛りがあり、城端へ初めてランプを持ち込んだのが此人だともいわれている。

行灯や蝋燭ばかりの当時のランプは初めて電灯のついた時以上の騒ぎで、日の暮れを待ってみんながおいの間につめかけてランプの灯されるのを待つといふ始末やがてランプに灯が入るとヤレこそ明るいのなんの是は眼がくらみますわいといふ次第、一寸一ぷく火をもらひますちゃーと煙草をつめた煙管を硝子のホヤの上から当ててこりゃはや何うにも火がつき申さんと不思議がるもの、いや全くのトンチンカンであった。

(「篤翁閑談」『城端時報』昭和33年3月号)

斎藤氏に紹介いただいたこの記事にもとづき、筆者も調査を行いましたが、確かに明治5年1月頃の城端の戸長の一人に、林庄平氏の名前がありました。いわゆる市制・町制の施行は明治22年からですから、「町長として云々」というのはちょっと違うかも知れません。しかし、当時の城端の行政組織は副区長をトップに五人の戸長が選出された形でしたから、町のナンバー2ぐらいの有力者と見なされていたとは思われます。

同記事には、林庄平氏が栄えたのは一代限りであったとも書かれています。しかし、こういう文明開化を自ら体現したような人物であれば、少なくとも子息を勉学のために東京に送るぐらいの事はしたのだろうなあと思っています。

2010年7月 6日 (火)

富山師範学校における英語4

明治25年7月、「師範学校ノ学科及其程度」(明治25年7月11日文部省令第8号)が改正され、外国語(英語)の学科およびその程度に関し、若干の変更があった。

第10条 師範学校ノ男生徒ニ課スヘキ学科目ノ程度ハ左ノ如シ

14 外国語
  第1学年、毎週2時
 読方・訳解・文法・会話及習字ヲ授ク
  第2学年、毎週3時
 前学年ノ続
  第3学年、毎週3時
 読方・訳解・修辞及作文ヲ授ク
  第4学年、毎週3時
 前学年ノ続
 外国語ヲ教授スル順序方法ヲ授ク
外国語ヲ授クルニハ常ニ発音及ビ読方ニ注意シ正シキ国語ヲ用ヒテ之ヲ訳解セシメ又時々翻訳ヲナサシムヘシ

今回の改正の最大の特徴としては、1週あたりの授業時数が、第1学年で3時間、第2学年で1時間減少したことにある。

また、第4学年で教授法を学ぶことを初めて規定するとともに、特に「正シキ国語ヲ用ヒテ」教授することを求めている点が注目される。当時はいわゆる訳読中心の授業が主流だったが、その際にいわゆる直訳風の不自然な日本語を介して教授することを特に戒めているのである。

なお、この「師範学校ノ学科及其程度」の改正に合わせ、富山県では明治26年2月、富山県尋常師範学校男生徒に課す学科目に外国語(英語)農業手工の3科目を加えることとした(明治26年2月22日県令第14号)が、従来からあったこの3科目を学科課程表中で一つにまとめたという意味である。

また、明治26年6月、富山県尋常師範学校では、男生徒用の英語教科用図書を次のものに改めた(明治26年6月1日訓第75号)。

「ナショナル読本」3、4、5卷、1884年刊、エーエス・バーンス商会
「スヰントン文法書」、1888年刊、ハーバー商会

2010年7月 3日 (土)

富山師範学校における英語3

明治23年10月に制定された「小学校令」(明治23年10月7日勅令第215号)において、小学校の教員は、特定科目のみを教授する専科教員と、それ以外の本科教員に分けられ、このうち補助教授あるいは一時教授を行う者は准教員、それ以外の教員は正教員と規定された。

この「小学校令」(明治23年10月7日勅令第215号)にもとづいて制定された「小学校教員検定等ニ関スル規則」(明治24年11月17日)において、准教員の試験の程度は府県が定めることと規定されていた。

富山県が定めた「高等小学校専科准教員試験科目ノ程度」(明治25年4月1日県令第34号)における英語(外国語)の規定は次の通り。

外国語:読方・訳解・習字・書取・会話・文法及作文

授業法ヲ附帯シテ試験ヲ行フモノトス

2010年6月29日 (火)

富山師範学校における英語2

明治24年8月に改正された「富山県尋常師範学校規則」(明治24年8月21日県令第43号)では、富山県尋常師範学校で使用される英語教科書の一部が変更となった。

【追加書目】

「スウィントン文法書」第1号1冊、1878年8月刊行
「ユニオン読本」第1号第1冊、1863年4月刊行

【削除書目】

「コックス文法書」

【男子生徒用教科用図書各級配当表】

第1学年第4級、ウエブストル綴字書・ナショナル読本3・スペンセル習字書
第2学年第3級、ナショナル読本4・スウィントン文法書
第3学年第2級、ナショナル読本5・スウィントン文法書
第4学年第1級、ユニオン読本4

2010年6月28日 (月)

柳城夜学校と田中貞吉の関係について

以前筆者は当ブログにおいて、田中貞吉が富山師範学校に赴任する直前、愛知県で「柳城夜学校」の校長を勤めていたという調査記録を書いた。しかし、それ以上詳しいことは、当時の筆者には何もわからなかった。

しかし、最近になって、明治期の夜間中学に詳しい三上敦史氏によって、より詳しい調査がすでに行われていたことを知った。

氏の調査によれば、柳城夜学校は、明治16年2月頃、当時愛知県中学校の教頭を勤めていた田中貞吉が中心となり、私立中学として設置されたという。同氏はまた、中学から教員を派遣するなど、柳城夜学校の経営手法等は、仙台(宮城)中学校夜間部のそれに倣ったのではないかとも指摘している(「中学校正格化期(1870~80年代)の県立仙台(宮城)中学校における夜間部の設置と展開 : 「慶應義塾等ノ方法」を標榜する変則学科がたどった軌跡。」北海道大學教育學部紀要 = THE ANNUAL REPORTS ON EDUCATIONAL SCIENCE, 80: 259-276)

このことから、次の2点が指摘できる。

海軍省を退役した田中貞吉は、愛知県中学に赴任して教頭を勤め、夜学校の設立を経験したのち、富山県師範学校に校長として転任した。横山源之助らが伝える「愛知県の中学で校長を勤めた」という伝説には一定の根拠があった。

田中貞吉自身が県立中学、あるいは師範学校の附属校的な私立学校設立の経験を持ち、保田廣太郎による私立富山英語学校の設立には、中学、師範からの教員の派遣等に、積極的に協力していた可能性がある。私立富山英語学校は、師範、中学の附属校のような性格をかなり強く持っていたのかもしれない。同校もまた、設立後しばらくして夜学となった。

2010年6月23日 (水)

新川県時代の教科書?

以前から新川県時代の本を探しているのですが、今日やっとひとつだけ関連がありそうな物を入手しました。当時の小学校の教科書「地理初歩」です。大きさは縦 21センチ、横15センチ、12丁です。
1b
この「地理初歩」は当時の師範学校で編纂したものを、地方各地の出版者が翻刻して、全国の小学校で使用したものです。ですから、同じ内容のものが全国で何千、何万冊と出版されました。その意味では、特に珍しい物ではありません。しかも、今回僕が入手した物には奥付すらなく、また、どこにも「新川県」という文字は入っていません。
2b
ただ、翻刻人として表紙に名前が出ている「真田善次郎」は、かつて富山藩の藩校廣徳館の編纂本を数多く出版してきた、越中富山の出版人の一人です。「改正」の明治7年8月といえば、まさしく新川県時代のど真ん中で、「地理初歩」も1年後にはまた改訂版が出ていますから、この本はその時代の物である可能性は高そうです。

それでは、どうして表紙に「新川県」の文字がないのか、という疑問が生じますが、実はこれは、お隣の新潟県の小学校で使用された物なのです。だから翻刻人の住所を入れることができなかったのですね。とはいえ、これは同時に、出版人真田善次郎の販路が隣県にまで広がっていたことも意味します。

ところで、今回この本を古書店から購入したところ、それこそ本当に珍しい物が間に挟まっていました。氏名から推して、この教科書のかつての持ち主だった事は間違いありません。大きさは、縦14センチ、横21センチの、和紙一枚物です。念のため、氏名はぼかしてご覧に入れます。

3b_2
これが入手できたことはとてもうれしいのですが、実はここでちょっと困った問題が起きてしまいました。この卒業証書の持ち主が下等小学5級を卒業したのは明治11年12月となっています。当時の小学校で「地理初歩」が使用されたのは、下等小学6級のあたりでしたので、この教科書も明治11年の前半頃、つまり、新川県が廃された後に使用されたものである可能性が出てくるのです。

2010年6月21日 (月)

富山師範学校における英語1

富山県の師範学校では、新川県小学教員講習所時代に一度英語の課外授業が企てられたものの(明治8年9月)、直後に実施された石川県への編入によって(明治9年4月18日)、この計画は規則頒布の段階で頓挫した。授業を担当する予定だった教師の氏名など、詳細は現時点では不明である。

富山県尋常師範学校において、小学校英語教員の養成が正式に開始されたのは、高等小学校での英語授業の加設が文部省令「小学校ノ学科及其程度」(明治19年5月25日文部省令第8号)によって認められ、「尋常師範学校学科程度ノ事」(明治19年5月26日文部省令第9号)により尋常師範学校における英語授業の概要が規定された、明治20年4月からである。

富山県では、この「尋常師範学校学科程度ノ事」にもとづいて、「富山県尋常師範学校規則」(明治19年12月23日県令第32号)を制定し、この中に英語の授業に関する規定を設けた。

富山県尋常師範学校は4年制で、原則として高等小学校卒業以上の学力を有し、年齢17歳以上であることが入学資格だった。

【学科課程表】

第1学年第4級、毎週5時間、綴字・読法・習字
第2学年第3級、毎週4時間、読法・文法
第3学年第2級、毎週3時間、読法・文法・翻訳
第4学年第1級、毎週3時間、読法・翻訳

【教科用図書各級配当表】

第1学年第4級、ウエブストル綴字書・ナショナル読本1、2・スペンセル習字書
第2学年第3級、ナショナル読本3、4・コックス文法書1
第3学年第2級、ナショナル読本4、5・コックス文法書2
第4学年第1級、ナショナル読本5

なお、女生徒には英語を課さなかった。

2010年6月17日 (木)

新川県講習所英学規則

新川県講習所英学規則
    明治8年9月頒布

一 今般講習所教師本科余暇ヲ以テ毎日三時間充英学ヲ開業セシム依テ左ノ規則ヲ設ク
第一条
一 英学ノ生徒ハ齢ノ長幼ヲ問ワス総テ篤志ノモノハ入学ヲ許ス可シ
第二条
一 凡外国学ヲ修ムルモノ国書歴史ニ暗キハ学問ノ本来ヲ誤リ他日ノ用ヲナシ難シ故ニ生徒ノ年齢ト学力トニ因リ小学及中学科ヲ斟酌シ国書ヲ以テ旁ラ綴字作文及日本支那学ノ歴史等ヲ兼ネ教ユ可シ
第三条
一 教則ハ予科三級本科五級合セテ八級ヲ置キ一級ヲ六ヶ月ノ程課トス故ニ生徒在学期限ハ四ヶ年タルヘシト雖モ従前学フ所アリ其学力略予科ニ当ルモノハ直ニ本科ニ入レ在学二年半トス
第四条
一 毎級六ヶ月ノ終ニ至リ試験アル可シ此時ニ至リテ生徒学力不満ニシテ進級ニ当ラサルモノハ元ノ級ニ置ク尚六ヶ月之ヲ教フ若シ斯ノ如キコト続キテ再度ニ及フモノハ退学ヲ命ス
    但六ヶ月以内学業ノ進否ニヨリ優劣判然ナルモノハ臨時試業ヲ加ヘ登降アル可シ
第五条
一 英学ヲ修メント欲シ入学ヲ乞フモノハ従前得ル所ノ学問履歴並住所族籍ヲ書シタル短冊ヲ講習所詰学務課ニ出ス可シ
    但入学ノトキハ請人アル可シ此請人ハ当管内ニ居住スルモノニ限ル
第六条
一 生徒入学ノ上ハ毎月受業料五十銭ヲ納ム可シ
    但相当ノ授業料上納難キモノハ戸長ノ証書ヲ以テ二十五銭ヲ納ルヽヲ許ス
第七条
一 書籍等自分ニ用ヰル必需ノ習学品ハ総テ自費タルヘシ
    但書籍ハ願ニ因リ貸渡ス事アル可シ然ルトキハ拝借料ヲ納ム可シ
第八条
一 書籍貸料ハ其元価十円以下ノモノハ其二十分ノ一ヲ修メシメ元価十円以上ノモノハ三十分ノ一ヲ納メシム以上積テ元価十分ノ一ヲ増スニ至レハ乃チ其借主ニ付与ス可シ
第九条
一 受業料並書籍貸料ハ毎月三日限リ当人ヨリ上納ス可シ若シ期限ニ上納セサルトキハ請人ヨリ直ニ之ヲ出サシム可シ
第十条
一 入学ノモノ左ノ雛形ノ願書ヲ出ス可シ 雛形略之
一 入学願許可スルトキハ入場ノ際左ノ雛形ノ証書ヲ出ス可シ 雛形略之
一 相当ノ受業料ヲ納メサルモノハ左ノ入学願書ヲ出ス可シ 雛形略之
一 前記ノ入学願人ハ允可ヲ得入場スルトキ左ノ雛形ノ証書ヲ出スヘシ 雛形略之
英学教科則
予科

    第三番 文典初歩 第一リードル
    第二番 地理書  万国史
    第一番 究理書インデルメヂュート第三リードル
本科
    第五等 小経済論・米国史・近世史・アチリチカル文典 プティコリー アリスメチック
    第四等 政体書・英国史・化学書・仏国史・ロビンスン フラクチカル アリスメチック
    第三等 英政如何万国史 経済論修身論 仝
    第二等 生理書・記簿法・修身論・万国公法 ロビンスン エレメンタリー アルゼブラ
    第一等 経済論・リプレヒンタチーブ・ガブルンメント・メタヒシック・文明史 ロビンスン ハイエル アリスメチック

2010年6月12日 (土)

富山県の高等小学校における英語3

明治33年8月に改正された「小学校令」(明治33年8月20日勅令第344号)によって、明治期の高等小学校の課程はほぼ確定した。こののち第二次世界大戦後の学制改革まで、部分的な改変を除き基本的な編成に変更はなかった。

今回の小学校令改正では、小学校教則及び小学校編成に関する規定は文部大臣が定めることとなった(第28条)。このため、富山県独自の教則は廃止された。ただし、教科用図書の採定権は府県に残された(第24条)。

「小学校令」における英語に関する規定は以下の通り。

英語を加えることができるのは、修業年限が4年の高等小学校に限る。また、これを随意科目とすることができる(第20条)。

図画、唱歌、体操、裁縫、英語、農業、商業、手工からの1科もしくは数科目に限り教授する教員を専科正教員とする(第39条)。

これは、これらの教科を教える教員の多くが、師範学校以外の中等諸学校出身者であることをふまえたものと思われる。

教則・課程等については、小学校令改正に合わせて制定された「小学校令施行規則」(明治33年8月21日文部省令第14号)において規定された。

【教則】

第15条 英語ハ簡易ナル会話ヲナシ又近易ナル文章ヲ理解スルヲ得シメ処世ニ資スルヲ以テ要旨トス
英語ハ発音ヨリ始メ進ミテ単語短句及近易ナル文章ノ読ミ方、書キ方、綴方並ニ話シ方ヲ授クヘシ
英語ノ文章ハ純正ナルモノヲ選ヒ其ノ事項ハ児童ノ智識ノ程度ニ伴ヒ趣味ニ富ムモノタルヘシ
英語ヲ授クルニハ常ニ実用ヲ主トシ又発音ニ注意シ正シキ国語ヲ以テ訳解セシメンコトヲ努ムヘシ

【授業時数】

英語等を加えるときは他教科から毎週2時間を減らしてこれに充て、それでも不足する場合は男児に限って毎週2時間を加えてこれに充てる(第18条)。

【教員免許試験の程度】

府県が師範学校出身者に課す本科正教員の試験科目から英語を除外することができる(第108条)。

英語の専科正教員の試験の程度は師範学校生徒に課すものに準じる(第110条)。また、この試験には教授法を附す(同条)。

【学科配当表】

第一学年、読ミ方・書キ方・綴リ方・話シ方。
第二学年、読ミ方・書キ方・綴リ方・話シ方。
第三学年、読ミ方・書キ方・綴リ方・話シ方。
第四学年、読ミ方・書キ方・綴リ方・話シ方。

富山県の高等小学校の英語の教科書は、明治34年4月から、日本人が編輯した検定教科書を使用することになった。採用が決まった順に列記する。

【明治34年1月27日県令第4号】

宮井安吉編『小学英語読本』(Commomn School English Readers)、4冊、明治34年1月21日刊行、東京:金港堂。

【明治37年1月29日県令第5号】

アルネスト・パルシー・ルース、吉田潔著『小学英語教科書』(English Readers for Primary Schools)、4冊、明治36年12月18日刊行、東京:小林義則。

【明治41年4月1日富山県告示第86号】

文部省著『小学校用 文部省英語読本』(Mombsho English Readers for Elementary Schools)、第1巻、刊行年不明、文部省。

【明治42年4月30日富山県告示第114号】

文部省著『小学校用 文部省英語読本』(Mombsho English Readers for Elementary Schools)、第2巻、刊行年不明、文部省。

このうち、吉田潔の『小学英語教科書』が、『富山県教育史 上巻』p.461に掲載の小学校用英語教科書"English Readers for Primary Schools"の事であると思われる。

ちなみに、明治期に富山県の小学校で使用された教科書の多くが、上記英語教科書を含め旧富山市立図書館に収められていたが、昭和20年8月1日の富山大空襲によって灰燼に帰した。現在では、その88ページにのぼる手書きの『小学校用旧教科書目録』のみが、県立図書館に残されている。

この『小学校用旧教科書目録』によれば、英語の教科書としては他に次のものがあった。

佐伯好郎著『小学用新英語読本』(The New Primers)、4冊、明治36年10月刊行、東京:目黒書店。
Kambe Naokichi

神戸直吉著"A New Practical English Primer for Japanese Pupils in Primary Schools"、明治37年刊行、神戸書店。

文部省著『小学校用 文部省英語読本』(Mombsho English Readers for Elementary Schools)、第3巻、明治44年刊行、文部省。

今井信之著"New Century English Composition"、大正7年刊行、東京:興文社。

明治37年3月には「富山県師範学校附属小学校規則」(明治37年3月19日県令第17号)が改正された。

ここでは、英語の授業は高等小学校の随意科として多級において週2時間実施されることとなっていた。学科配当は公立小学校と同じで、ただし、「女児には英語を課せず」と注記されている。

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