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富山の英学に関する資料調査の結果や論文の「覚え書き」、そして研究日誌等を投稿するブログです。学術論文執筆のための資料集の構築を目指しています。

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2011年8月29日 (月)

明治5年慶應義塾入社?

先生

先日お尋ねの件ですが、当該人物は明治8年3月1日に慶應義塾医学所に入所しています。入所時の年齢は22才7か月で、慶應義塾医学所は13~15才から入所可能でしたから、入所者としては比較的高齢ですが、今のところ入所前の経歴は不明です(慶應義塾本科にも入社の記録はありません)。

この慶應義塾医学所は明治6年10月に三田で設立され、明治13年6月に廃校となっています。修業年限は本科40か月、予科15か月で、当該人物が全課程を納め得たとしてもギリギリのタイミングです。また、この医学所を「卒業」しても、東京大学医学部と違ってただちには医師免状を得ることはできませんでした。

しかし、当時は、学歴が最低1年半ありさえすれば、誰でも医術開業試験を受けて医師になれました(済生学舎などはそのための予備校です)。当該人物については、やはり東大学医学部(本科)の卒業生名簿には名前がありませんので、廃校と同時に東大学医学部別科に入学したか、直接医術開業試験を受けたのどちらかと思われます(年齢的にも後者ではないかと…)。

ちなみに、当時は東大医学部(本科)ではドイツ語が必修で、入学そのものが大変でした。慶應義塾医学所は英語で履修できることから、一時期大きな人気を集めました(入所者延べ300名程)。しかし、残念ながら実習施設は貧弱で、その後官立・公立の医学校が多数設立されたことから、学校経営に行き詰まりの兆しが見え、福澤諭吉はあっさり廃校を決意したとのこと。ただし、最後の卒業者が出るまでは維持されていたとも言われております。

以上『慶應義塾入社帳』『慶應義塾百年史』等参照

2011年4月25日 (月)

根室英語学校(明治22年~29年) その3

根室英語学校の様子については、佐藤喜代吉の「北海道旅行記 明治23年」(『根室市史史料編』渡辺茂編著、根室市、1968年刊行)にわずかだが記録がある。以下関係か所を引用しておく。なお、英語教育に何らかの関連がありそうな部分も含めた。

「学校には公立花咲小学校、私立根室学校、英語学校等あり、花咲小学校は明治9年の創立に係り高等、尋常、簡易の三科を授け生徒五百名を有す本道東部第一の学校なり、根室学校、英語学校も亦頗る隆盛なるを見る、青年組織の一団体あり名けて(ママ)根室青年学友会と云ふ毎週一回演説若くば討論の会を開き智識交換を以て目的と為せり、基督教主義の学校に愛隣学校なるものあり洋婦人カーペンター之が教授を司ると云ふ、

「教育 公立花咲小学校は明治9年の設立にして尋常及び高等の二科を授く尋常科生徒338人(内男216、女122)高等科生徒85人(内男72、女13)を有す、本道東部第一の大校にて分校二あり一を幌茂尻分校と云ひ一を弥生分校と云ふ…(中略)…和田村に第一、第二の小学校あり…(中略)…、私立根室英語学校は常盤町に有り根室有志者の設立に係り昼夜英語学を教授す生徒幾んど一百名に及ぶ、根室女子小学校は僧侶諸氏の設立に係り現今緑町に有り生徒一百名の上に出づ、根室市内又教育衛生会の設けありて毎月例会を開き教育衛生の振興を計り、女子教育会の設けありて時々教育上の談話を為す、其他史学研究会、簿記学講究所の設けありて学事は日に月に盛なるを見る殊に花咲小学校は書籍数千巻を有して地方有志者の便覧に供するなど北海の辺陬文事の隆盛を想察せしむるものあり又同校にては毎年春秋二季に於て盛なる運動会を挙行し以て学生の体育を鼓舞するに怠たらずと云ふ。

別資料に愛隣学校では主に英語を教えたとある。また、ここでは根室英語学校が昼も授業を行ったとあるが、他の記録と整合しない。

2011年4月22日 (金)

根室英語学校(明治22年~29年) その2

例によってこの「北海道教育史」の記事には注釈が無く、出典はよくわからないのだが、おそらく「北海道教育会雑誌」(明治24年3月~25年8月)か「北海道教育雑誌」(明治25年9月~明治40年4月)あたりか。特に、せっかく教師名が出ていながら一部フルネームでないのは残念であるが、出典にも記述はないに違いない。

また、根室実修学校についての記述は、同校の教師の一人で、クラウン・リーダーの実質的な著者であった長岡拡の追憶と遺稿を集めた「長岡教授の面影」(三省堂、昭和7年刊行)に依っているようだ。

それはともかく、「北海道教育史」においては、根室英語学校は明治前半期の英語学習ブームに乗って設立された夜学の各種学校で、根室における中等教育機関設立の先駆けとなったとされている。この解釈については大筋では特に問題はないと思う。しかし、細かないくつかの点では検討の余地がある。

まず第1に、松岡勇記が英語学校の設立を主唱し、また自ら教えたことについてである。松岡勇記といえば、洋学史に関心のある者なら知らない者のない有名人である。福澤諭吉の親しい友人の一人で、適塾における福澤の同窓生(「福翁自伝」に登場する)にしてオランダ人医師マンスフェルトの高弟。当代一流の医師であり、当時の根室における最高の文化人の一人であったことは確かだが、あくまでも蘭方医であって、少しは英語の知識があったにしても必ずしも得意ではなかった。

第2に、松岡と共に英語を教えたとされる山本利輔、柏谷亀五郎、そして高橋という人物については、どのような英語の学習歴があり、どの程度の力があったものか。正副会長の道庁理事官広田千秋、同属伊阪員正については、当時よくありがちだった名誉職に過ぎず、自ら英語の授業をしたとは考えられない。

ちなみに、伊阪の上司には富山県士族(?)で札幌農学校第三期卒(明治15年)の赤壁二郎がいて、ここには名前は出てこないが根室支庁の役人中きっての英語使いであり、英語学校との関係が気になる。

第3に、根室英語学校を経営面で支えたとされる日本郵船会社出張所支配人山田秀治のプロフィールも不明である事に加え、新進実業家の山縣三郎の登場が、やや唐突すぎると思われる。なぜ同時期に二つの英語学校が設立されたのか。その必要があったのか。

実は日本郵船の資料を見ても、明治20年前後の日本郵船会社の北海道内の出張所長あるいは支店長クラスには山田秀治という名はなく、山田は山田でも山田季治(すえじ)の誤りではないかと思われるのだ。

山田季治は福澤諭吉の縁者で、若い頃教育者としてのちの著名な英語研究者を育てると共に、日本郵船を退社後ジャパン・タイムズの初代社長となった人物。この頃は北海道内の支店を任されており、根室の有力な実業家たちとも交流があった。

一方、根室実修学校の最初の英語教師は同志社の出身で塚本という姓であるが(「長岡教授の面影」)、それ以上は現在のところ不明である。長岡拡を含め、同志社からの英語教師の招聘は、山縣の縁故によるものともいうが、いつもながらこの手の話はどうもわかりにくい。

2011年4月20日 (水)

根室英語学校(明治22年~29年) その1

明治22年から29年にかけて、北海道東端の町根室に根室英語学校という私立の各種学校があった。その概要は以下の通り(「北海道教育史 地方編一」北海道立教育研究所編、昭和30年5月刊行、pp.1001-02より引用)。

「開拓使根室支庁についで明治15年には根室県庁、同19年には北海道根室支庁と、道東行政の中心になった根室町は文化においても札幌・函館におとらず、殊に欧米文化摂取の時代の流れとして英語に対する関心が高まり、公立根室病院長松岡勇記、山本利輔、柏谷亀五郎の三氏が首唱して明治22年1月英語講習会が誕生した。

「常盤町三丁目の根室町会所を仮校舎として道庁理事官広田千秋、同属伊阪員正を正副会長に、柏谷・松岡・山本・高橋の四氏が幹事となって、昼間学修のできない人々のため毎夜英語を教えたのである。

「同年11月、日本郵船会社出張所支配人山田秀治(ママ)が別に根室英語学校を創立したが、後両者の話合で合併し、山田が校主、柏谷・山本が幹事となって再出発した。しかし、私学の経営は容易なものでなかったので、当時根室を地盤にして産業に海運に七面八臂(ママ)の活躍をしていた快男児山県勇三郎(後にブラジルに移住した)が校主をかって出て明治24年から学校経営を引受けた。

また、同校の後継校として根室実修学校が創立された。

「(根室英語学校は)明治28年の大火で校舎を焼失してしまったので、同29年花咲町5丁目に新校舎を建てると同時に、夜学を廃して昼間授業の根室実修学校と改称した。これこそ道東唯一の三年制私立中学校であった。その学校の校長は柏谷亀五郎で、専任教師は早川万・森拡(長岡)・塚本・吉永・村井、嘱託教師に三浦保太郎・久下市十郎・米川虎吉があった。

「この学校は明治35年3月31日で廃止したが、東端に偏した根室において進歩的な学風をもち、民主的な教育を施した。京都同志社を中退して、20才の若さで山県に招かれて根室にやってきた長岡拡(後の東京商大教授)や帝大出身の根室病院長米川虎吉の感化は大きかった。

「根室実修学校は簡易中学校であったので上級学校を志すものは東京へ出て中学校5年の編入試験を受けなければならなかったが、殆んどがパスしたという事であり教育の水準は高かった…(中略)…こうして此の学校は中等教育施設設置への過程における重要な使命を果したのであった。

2011年1月29日 (土)

函館丸船長森本弘策

明治8年5月7日、ロシアと日本の間で樺太・久里留交換条約(いわゆる樺太・千島交換条約)が調印された。

これに伴い、新領土となった久里留諸島の実況を把握して急ぎ経営方針を策定することが、日本政府にとって当面最も重要な課題となった。そこで翌年1月14日、日本政府は久里留諸島を千島国に編入・改名して、新たに得撫、新知、占守の三郡の設置を決定したのを機に、同地に開拓使の長谷部辰連・時任為基を団長とする調査団を派遣して、地形・地質・物産・人口・風俗等の実態調査に当たらせた。

このとき、特に選ばれて遠くカムチャッカ半島手前の占守島まで調査団を案内し、港湾および海峡の水深や海底地形の調査・測量の任に当たったのが、当時開拓使附属船函館丸の船長を務めていた森本弘策なのであった。

森本の手堅い仕事ぶりは、この調査の報告書である『明治九年千島三郡取調書』から読み取ることができるが、それにしてもこのような重要任務を任せられ(前年末の玄武丸派遣による千島列島の受渡手続は濃霧により中途半端に終わった)、かつては開拓使仮学校(札幌農学校の前身校)の算術教師に選ばれ、あるいは富山藩変則英学校の英学教師をも勤めた人物の、『説夢録』における、敵意からとも取りうるほどのあの粗末な取り扱いは、いったいどうしたことであろうか。

2010年9月 8日 (水)

林好一郎の父

以前城端東新田町出身で、明治14年頃慶應義塾に学んだ林好一郎という人物のことを書きましたが、最近になってその父親の事について情報を寄せていただいたので、ここに書いておきたいと思います。

知らせていただいたのは、善徳寺元宝物館長の斎藤氏です。筆者が同寺を訪れたのは半年以上前のことですが、この間ずっと調べていただいたのでしょうか。見ず知らずの訪問者に寄せられた過分なご厚意に、心より感謝いたします。

さて、斎藤氏によれば、『城端時報』の昭和33年3月号に、「林庄平」という人物について書かれた記事があるとのこと。『慶應義塾入社帳』には、林好一郎の父親は林庄兵衛と表記されているものの、記事の内容や時代から推して、同一人物であることはまず間違いないと思われます。

この記事によれば、現在はなくなりましたが、かつては城端東新田町の西隣に瀬戸町という十数軒ばかりの小さな町があり、林庄平氏はこの町の南端に住んでいたといいます。この瀬戸町は日稼ぎの人が多く、決して裕福とは言えない町でしたが、林庄平氏は「明治の初め頃に町長として才腕をふるった」「異例」の存在であったとのことです。

恐らく金沢藩の士族ででもあったのであらふが言葉に可成りの金沢訛りがあり、城端へ初めてランプを持ち込んだのが此人だともいわれている。

行灯や蝋燭ばかりの当時のランプは初めて電灯のついた時以上の騒ぎで、日の暮れを待ってみんながおいの間につめかけてランプの灯されるのを待つといふ始末やがてランプに灯が入るとヤレこそ明るいのなんの是は眼がくらみますわいといふ次第、一寸一ぷく火をもらひますちゃーと煙草をつめた煙管を硝子のホヤの上から当ててこりゃはや何うにも火がつき申さんと不思議がるもの、いや全くのトンチンカンであった。

(「篤翁閑談」『城端時報』昭和33年3月号)

斎藤氏に紹介いただいたこの記事にもとづき、筆者も調査を行いましたが、確かに明治5年1月頃の城端の戸長の一人に、林庄平氏の名前がありました。いわゆる市制・町制の施行は明治22年からですから、「町長として云々」というのはちょっと違うかも知れません。しかし、当時の城端の行政組織は副区長をトップに五人の戸長が選出された形でしたから、町のナンバー2ぐらいの有力者と見なされていたとは思われます。

同記事には、林庄平氏が栄えたのは一代限りであったとも書かれています。しかし、こういう文明開化を自ら体現したような人物であれば、少なくとも子息を勉学のために東京に送るぐらいの事はしたのだろうなあと思っています。

2010年7月 6日 (火)

富山師範学校における英語4

明治25年7月、「師範学校ノ学科及其程度」(明治25年7月11日文部省令第8号)が改正され、外国語(英語)の学科およびその程度に関し、若干の変更があった。

第10条 師範学校ノ男生徒ニ課スヘキ学科目ノ程度ハ左ノ如シ

14 外国語
  第1学年、毎週2時
 読方・訳解・文法・会話及習字ヲ授ク
  第2学年、毎週3時
 前学年ノ続
  第3学年、毎週3時
 読方・訳解・修辞及作文ヲ授ク
  第4学年、毎週3時
 前学年ノ続
 外国語ヲ教授スル順序方法ヲ授ク
外国語ヲ授クルニハ常ニ発音及ビ読方ニ注意シ正シキ国語ヲ用ヒテ之ヲ訳解セシメ又時々翻訳ヲナサシムヘシ

今回の改正の最大の特徴としては、1週あたりの授業時数が、第1学年で3時間、第2学年で1時間減少したことにある。

また、第4学年で教授法を学ぶことを初めて規定するとともに、特に「正シキ国語ヲ用ヒテ」教授することを求めている点が注目される。当時はいわゆる訳読中心の授業が主流だったが、その際にいわゆる直訳風の不自然な日本語を介して教授することを特に戒めているのである。

なお、この「師範学校ノ学科及其程度」の改正に合わせ、富山県では明治26年2月、富山県尋常師範学校男生徒に課す学科目に外国語(英語)農業手工の3科目を加えることとした(明治26年2月22日県令第14号)が、従来からあったこの3科目を学科課程表中で一つにまとめたという意味である。

また、明治26年6月、富山県尋常師範学校では、男生徒用の英語教科用図書を次のものに改めた(明治26年6月1日訓第75号)。

「ナショナル読本」3、4、5卷、1884年刊、エーエス・バーンス商会
「スヰントン文法書」、1888年刊、ハーバー商会

2010年7月 3日 (土)

富山師範学校における英語3

明治23年10月に制定された「小学校令」(明治23年10月7日勅令第215号)において、小学校の教員は、特定科目のみを教授する専科教員と、それ以外の本科教員に分けられ、このうち補助教授あるいは一時教授を行う者は准教員、それ以外の教員は正教員と規定された。

この「小学校令」(明治23年10月7日勅令第215号)にもとづいて制定された「小学校教員検定等ニ関スル規則」(明治24年11月17日)において、准教員の試験の程度は府県が定めることと規定されていた。

富山県が定めた「高等小学校専科准教員試験科目ノ程度」(明治25年4月1日県令第34号)における英語(外国語)の規定は次の通り。

外国語:読方・訳解・習字・書取・会話・文法及作文

授業法ヲ附帯シテ試験ヲ行フモノトス

2010年6月29日 (火)

富山師範学校における英語2

明治24年8月に改正された「富山県尋常師範学校規則」(明治24年8月21日県令第43号)では、富山県尋常師範学校で使用される英語教科書の一部が変更となった。

【追加書目】

「スウィントン文法書」第1号1冊、1878年8月刊行
「ユニオン読本」第1号第1冊、1863年4月刊行

【削除書目】

「コックス文法書」

【男子生徒用教科用図書各級配当表】

第1学年第4級、ウエブストル綴字書・ナショナル読本3・スペンセル習字書
第2学年第3級、ナショナル読本4・スウィントン文法書
第3学年第2級、ナショナル読本5・スウィントン文法書
第4学年第1級、ユニオン読本4

2010年6月28日 (月)

柳城夜学校と田中貞吉の関係について

以前筆者は当ブログにおいて、田中貞吉が富山師範学校に赴任する直前、愛知県で「柳城夜学校」の校長を勤めていたという調査記録を書いた。しかし、それ以上詳しいことは、当時の筆者には何もわからなかった。

しかし、最近になって、明治期の夜間中学に詳しい三上敦史氏によって、より詳しい調査がすでに行われていたことを知った。

氏の調査によれば、柳城夜学校は、明治16年2月頃、当時愛知県中学校の教頭を勤めていた田中貞吉が中心となり、私立中学として設置されたという。同氏はまた、中学から教員を派遣するなど、柳城夜学校の経営手法等は、仙台(宮城)中学校夜間部のそれに倣ったのではないかとも指摘している(「中学校正格化期(1870~80年代)の県立仙台(宮城)中学校における夜間部の設置と展開 : 「慶應義塾等ノ方法」を標榜する変則学科がたどった軌跡。」北海道大學教育學部紀要 = THE ANNUAL REPORTS ON EDUCATIONAL SCIENCE, 80: 259-276)

このことから、次の2点が指摘できる。

海軍省を退役した田中貞吉は、愛知県中学に赴任して教頭を勤め、夜学校の設立を経験したのち、富山県師範学校に校長として転任した。横山源之助らが伝える「愛知県の中学で校長を勤めた」という伝説には一定の根拠があった。

田中貞吉自身が県立中学、あるいは師範学校の附属校的な私立学校設立の経験を持ち、保田廣太郎による私立富山英語学校の設立には、中学、師範からの教員の派遣等に、積極的に協力していた可能性がある。私立富山英語学校は、師範、中学の附属校のような性格をかなり強く持っていたのかもしれない。同校もまた、設立後しばらくして夜学となった。

2010年6月23日 (水)

新川県時代の教科書?

以前から新川県時代の本を探しているのですが、今日やっとひとつだけ関連がありそうな物を入手しました。当時の小学校の教科書「地理初歩」です。大きさは縦 21センチ、横15センチ、12丁です。
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この「地理初歩」は当時の師範学校で編纂したものを、地方各地の出版者が翻刻して、全国の小学校で使用したものです。ですから、同じ内容のものが全国で何千、何万冊と出版されました。その意味では、特に珍しい物ではありません。しかも、今回僕が入手した物には奥付すらなく、また、どこにも「新川県」という文字は入っていません。
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ただ、翻刻人として表紙に名前が出ている「真田善次郎」は、かつて富山藩の藩校廣徳館の編纂本を数多く出版してきた、越中富山の出版人の一人です。「改正」の明治7年8月といえば、まさしく新川県時代のど真ん中で、「地理初歩」も1年後にはまた改訂版が出ていますから、この本はその時代の物である可能性は高そうです。

それでは、どうして表紙に「新川県」の文字がないのか、という疑問が生じますが、実はこれは、お隣の新潟県の小学校で使用された物なのです。だから翻刻人の住所を入れることができなかったのですね。とはいえ、これは同時に、出版人真田善次郎の販路が隣県にまで広がっていたことも意味します。

ところで、今回この本を古書店から購入したところ、それこそ本当に珍しい物が間に挟まっていました。氏名から推して、この教科書のかつての持ち主だった事は間違いありません。大きさは、縦14センチ、横21センチの、和紙一枚物です。念のため、氏名はぼかしてご覧に入れます。

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これが入手できたことはとてもうれしいのですが、実はここでちょっと困った問題が起きてしまいました。この卒業証書の持ち主が下等小学5級を卒業したのは明治11年12月となっています。当時の小学校で「地理初歩」が使用されたのは、下等小学6級のあたりでしたので、この教科書も明治11年の前半頃、つまり、新川県が廃された後に使用されたものである可能性が出てくるのです。

2010年6月21日 (月)

富山師範学校における英語1

富山県の師範学校では、新川県小学教員講習所時代に一度英語の課外授業が企てられたものの(明治8年9月)、直後に実施された石川県への編入によって(明治9年4月18日)、この計画は規則頒布の段階で頓挫した。授業を担当する予定だった教師の氏名など、詳細は現時点では不明である。

富山県尋常師範学校において、小学校英語教員の養成が正式に開始されたのは、高等小学校での英語授業の加設が文部省令「小学校ノ学科及其程度」(明治19年5月25日文部省令第8号)によって認められ、「尋常師範学校学科程度ノ事」(明治19年5月26日文部省令第9号)により尋常師範学校における英語授業の概要が規定された、明治20年4月からである。

富山県では、この「尋常師範学校学科程度ノ事」にもとづいて、「富山県尋常師範学校規則」(明治19年12月23日県令第32号)を制定し、この中に英語の授業に関する規定を設けた。

富山県尋常師範学校は4年制で、原則として高等小学校卒業以上の学力を有し、年齢17歳以上であることが入学資格だった。

【学科課程表】

第1学年第4級、毎週5時間、綴字・読法・習字
第2学年第3級、毎週4時間、読法・文法
第3学年第2級、毎週3時間、読法・文法・翻訳
第4学年第1級、毎週3時間、読法・翻訳

【教科用図書各級配当表】

第1学年第4級、ウエブストル綴字書・ナショナル読本1、2・スペンセル習字書
第2学年第3級、ナショナル読本3、4・コックス文法書1
第3学年第2級、ナショナル読本4、5・コックス文法書2
第4学年第1級、ナショナル読本5

なお、女生徒には英語を課さなかった。

2010年6月17日 (木)

新川県講習所英学規則

新川県講習所英学規則
    明治8年9月頒布

一 今般講習所教師本科余暇ヲ以テ毎日三時間充英学ヲ開業セシム依テ左ノ規則ヲ設ク
第一条
一 英学ノ生徒ハ齢ノ長幼ヲ問ワス総テ篤志ノモノハ入学ヲ許ス可シ
第二条
一 凡外国学ヲ修ムルモノ国書歴史ニ暗キハ学問ノ本来ヲ誤リ他日ノ用ヲナシ難シ故ニ生徒ノ年齢ト学力トニ因リ小学及中学科ヲ斟酌シ国書ヲ以テ旁ラ綴字作文及日本支那学ノ歴史等ヲ兼ネ教ユ可シ
第三条
一 教則ハ予科三級本科五級合セテ八級ヲ置キ一級ヲ六ヶ月ノ程課トス故ニ生徒在学期限ハ四ヶ年タルヘシト雖モ従前学フ所アリ其学力略予科ニ当ルモノハ直ニ本科ニ入レ在学二年半トス
第四条
一 毎級六ヶ月ノ終ニ至リ試験アル可シ此時ニ至リテ生徒学力不満ニシテ進級ニ当ラサルモノハ元ノ級ニ置ク尚六ヶ月之ヲ教フ若シ斯ノ如キコト続キテ再度ニ及フモノハ退学ヲ命ス
    但六ヶ月以内学業ノ進否ニヨリ優劣判然ナルモノハ臨時試業ヲ加ヘ登降アル可シ
第五条
一 英学ヲ修メント欲シ入学ヲ乞フモノハ従前得ル所ノ学問履歴並住所族籍ヲ書シタル短冊ヲ講習所詰学務課ニ出ス可シ
    但入学ノトキハ請人アル可シ此請人ハ当管内ニ居住スルモノニ限ル
第六条
一 生徒入学ノ上ハ毎月受業料五十銭ヲ納ム可シ
    但相当ノ授業料上納難キモノハ戸長ノ証書ヲ以テ二十五銭ヲ納ルヽヲ許ス
第七条
一 書籍等自分ニ用ヰル必需ノ習学品ハ総テ自費タルヘシ
    但書籍ハ願ニ因リ貸渡ス事アル可シ然ルトキハ拝借料ヲ納ム可シ
第八条
一 書籍貸料ハ其元価十円以下ノモノハ其二十分ノ一ヲ修メシメ元価十円以上ノモノハ三十分ノ一ヲ納メシム以上積テ元価十分ノ一ヲ増スニ至レハ乃チ其借主ニ付与ス可シ
第九条
一 受業料並書籍貸料ハ毎月三日限リ当人ヨリ上納ス可シ若シ期限ニ上納セサルトキハ請人ヨリ直ニ之ヲ出サシム可シ
第十条
一 入学ノモノ左ノ雛形ノ願書ヲ出ス可シ 雛形略之
一 入学願許可スルトキハ入場ノ際左ノ雛形ノ証書ヲ出ス可シ 雛形略之
一 相当ノ受業料ヲ納メサルモノハ左ノ入学願書ヲ出ス可シ 雛形略之
一 前記ノ入学願人ハ允可ヲ得入場スルトキ左ノ雛形ノ証書ヲ出スヘシ 雛形略之
英学教科則
予科

    第三番 文典初歩 第一リードル
    第二番 地理書  万国史
    第一番 究理書インデルメヂュート第三リードル
本科
    第五等 小経済論・米国史・近世史・アチリチカル文典 プティコリー アリスメチック
    第四等 政体書・英国史・化学書・仏国史・ロビンスン フラクチカル アリスメチック
    第三等 英政如何万国史 経済論修身論 仝
    第二等 生理書・記簿法・修身論・万国公法 ロビンスン エレメンタリー アルゼブラ
    第一等 経済論・リプレヒンタチーブ・ガブルンメント・メタヒシック・文明史 ロビンスン ハイエル アリスメチック

2010年6月12日 (土)

富山県の高等小学校における英語3

明治33年8月に改正された「小学校令」(明治33年8月20日勅令第344号)によって、明治期の高等小学校の課程はほぼ確定した。こののち第二次世界大戦後の学制改革まで、部分的な改変を除き基本的な編成に変更はなかった。

今回の小学校令改正では、小学校教則及び小学校編成に関する規定は文部大臣が定めることとなった(第28条)。このため、富山県独自の教則は廃止された。ただし、教科用図書の採定権は府県に残された(第24条)。

「小学校令」における英語に関する規定は以下の通り。

英語を加えることができるのは、修業年限が4年の高等小学校に限る。また、これを随意科目とすることができる(第20条)。

図画、唱歌、体操、裁縫、英語、農業、商業、手工からの1科もしくは数科目に限り教授する教員を専科正教員とする(第39条)。

これは、これらの教科を教える教員の多くが、師範学校以外の中等諸学校出身者であることをふまえたものと思われる。

教則・課程等については、小学校令改正に合わせて制定された「小学校令施行規則」(明治33年8月21日文部省令第14号)において規定された。

【教則】

第15条 英語ハ簡易ナル会話ヲナシ又近易ナル文章ヲ理解スルヲ得シメ処世ニ資スルヲ以テ要旨トス
英語ハ発音ヨリ始メ進ミテ単語短句及近易ナル文章ノ読ミ方、書キ方、綴方並ニ話シ方ヲ授クヘシ
英語ノ文章ハ純正ナルモノヲ選ヒ其ノ事項ハ児童ノ智識ノ程度ニ伴ヒ趣味ニ富ムモノタルヘシ
英語ヲ授クルニハ常ニ実用ヲ主トシ又発音ニ注意シ正シキ国語ヲ以テ訳解セシメンコトヲ努ムヘシ

【授業時数】

英語等を加えるときは他教科から毎週2時間を減らしてこれに充て、それでも不足する場合は男児に限って毎週2時間を加えてこれに充てる(第18条)。

【教員免許試験の程度】

府県が師範学校出身者に課す本科正教員の試験科目から英語を除外することができる(第108条)。

英語の専科正教員の試験の程度は師範学校生徒に課すものに準じる(第110条)。また、この試験には教授法を附す(同条)。

【学科配当表】

第一学年、読ミ方・書キ方・綴リ方・話シ方。
第二学年、読ミ方・書キ方・綴リ方・話シ方。
第三学年、読ミ方・書キ方・綴リ方・話シ方。
第四学年、読ミ方・書キ方・綴リ方・話シ方。

富山県の高等小学校の英語の教科書は、明治34年4月から、日本人が編輯した検定教科書を使用することになった。採用が決まった順に列記する。

【明治34年1月27日県令第4号】

宮井安吉編『小学英語読本』(Commomn School English Readers)、4冊、明治34年1月21日刊行、東京:金港堂。

【明治37年1月29日県令第5号】

アルネスト・パルシー・ルース、吉田潔著『小学英語教科書』(English Readers for Primary Schools)、4冊、明治36年12月18日刊行、東京:小林義則。

【明治41年4月1日富山県告示第86号】

文部省著『小学校用 文部省英語読本』(Mombsho English Readers for Elementary Schools)、第1巻、刊行年不明、文部省。

【明治42年4月30日富山県告示第114号】

文部省著『小学校用 文部省英語読本』(Mombsho English Readers for Elementary Schools)、第2巻、刊行年不明、文部省。

このうち、吉田潔の『小学英語教科書』が、『富山県教育史 上巻』p.461に掲載の小学校用英語教科書"English Readers for Primary Schools"の事であると思われる。

ちなみに、明治期に富山県の小学校で使用された教科書の多くが、上記英語教科書を含め旧富山市立図書館に収められていたが、昭和20年8月1日の富山大空襲によって灰燼に帰した。現在では、その88ページにのぼる手書きの『小学校用旧教科書目録』のみが、県立図書館に残されている。

この『小学校用旧教科書目録』によれば、英語の教科書としては他に次のものがあった。

佐伯好郎著『小学用新英語読本』(The New Primers)、4冊、明治36年10月刊行、東京:目黒書店。
Kambe Naokichi

神戸直吉著"A New Practical English Primer for Japanese Pupils in Primary Schools"、明治37年刊行、神戸書店。

文部省著『小学校用 文部省英語読本』(Mombsho English Readers for Elementary Schools)、第3巻、明治44年刊行、文部省。

今井信之著"New Century English Composition"、大正7年刊行、東京:興文社。

明治37年3月には「富山県師範学校附属小学校規則」(明治37年3月19日県令第17号)が改正された。

ここでは、英語の授業は高等小学校の随意科として多級において週2時間実施されることとなっていた。学科配当は公立小学校と同じで、ただし、「女児には英語を課せず」と注記されている。

2010年6月11日 (金)

富山県の高等小学校における英語2

明治23年10月に、「小学校令」(明治23年10月7日勅令第215号)が改正された。また、合わせて文部省は「小学校教則大綱」(明治24年11月17日文部省令第11号)を新たに制定して各府県に通知した。

今回の小学校令改正では、文部大臣の許可を受けて各府県が制定する教科課程は、小学校教則大綱に基づくとされた。

これを受け、富山県では明治25年4月に「小学校規則」(明治25年4月8日県令第44号)および「小学校教則」(明治25年4月8日県令第43号)を制定した。このうち、「小学校教則」は、英語を含む各科目の教授要領を具体的に示した規則として画期的なものであった。

今回の「小学校令」改正では、高等小学校の修業年限は2年・3年・4年制の三種類と明記されたことから、教科課程の編成にもより柔軟な対応が求められた(富山県内はほとんどが2年制または4年制であった)。また、公立小学校における外国語等の加設については、市町村長の許可を受けるよう変更された。

「小学校規則」では、英語の科目名が「外国語」に変更された一方、教科用図書は従来の物を踏襲するとされた。

「小学校教則」における外国語に関する規定は次の通り。

【教授要領】

第15条 高等小学校ノ教科ニ外国語ヲ加フルハ将来ノ生活上其知識ヲ要スル児童ノ多キ場合ニ限ルモノトシ読方、訳解、習字、書取、会話、文法及作文ヲ授ケ外国語ヲ以テ簡易ナル会話及通信等ヲナスコトヲ得シムヘシ
外国語ヲ授クルニハ常ニ其発音及文法ニ注意シ正シキ国語ヲ用ヒテ訳解セシメンコトヲ要ス

なおこれは、一字一句に至るまで「小学校教則大綱」のそれと同じである。

【毎週時間数および教科課程】

従前の高等科課程表から英語が削除された一方、「土地ノ状況ニヨリ…幾何ノ初歩外国語農業商業手工ノ一科目若クハ数科目ヲ加フルトキハ其授業時間ハ便宜読書以下ノ諸科目ノ中ニ就キテ毎週四時間以内ヲ減ジ若クハ毎週男児ニ六時間以内女児ニ四時間以内ヲ加ヘ之ニ充ツルコトヲ得」という注記が附された。

また、

二十条 小学校長若クハ首席教員ハ小学校教則二従ヒ其小学校二於テ教授スヘキ各教科目ノ教授細目ヲ定ムヘシ

とあるのは「小学校教則大綱」の条文とまったく同じだが、これは教員自身による教授法の自発的な研究を促した規定として注目される。ただし、各校が定めた教授細目は県の管理下にないため、現在、関係する史料の発見は容易ではない。

なお、富山県尋常師範学校では、「小学校規則」制定後から1週間後の明治25年4月15日に「富山県尋常師範学校附属小学校規定」(明治25年4月15日訓第47号)を定めた。「小学校教則」と同様、課程表中に外国語(英語)がないが、原則として県の教則に従うことという注記がある。

2010年6月 7日 (月)

富山県の高等小学校における英語1

富山県の公立小学校(高等小学校)で英語の授業が正式に行われるようになったのは明治20年4月からである。

明治19年4月に公布された「小学校令」(明治19年4月10日勅令第14号)によって、小学校は初等・中等・高等(3・3・2年制)から、高等・尋常の二等(各4年)に分けられることとなった。

これと合わせて制定された文部省令「小学校ノ学科及其程度」(明治19年5月25日文部省令第8号)で、高等小学校では「土地ノ情況ニ因テハ英語農業手工商業ノ一科若クハ二科ヲ加フルコトヲ得」と規定された。

そして、これを機に、富山県においても同年12月18日付で「富山県小学校規則」を制定し、高等小学科課程に英語を加設できることとしたのであった。

この「富山県小学校規則」(明治19年12月18日県令第29号)は、高等小学校における英語の授業に関して次のように定めている。

【高等小学科課程】

毎週時数は3時間。
第1学期、綴字・附書取・習字。
第2学期、読方・附書取・訳読・習字。
第3学期、読方・附書取・訳読・習字。
第4学期、読方・附書取・訳読・習字・会話。
ただし、土地の状況により英語・農業・手工・商業のうち2科を加えるときは授業時数を適宜分割する。また、これらの科目を加設する場合は県に開申することとされていた。

【高等小学科用図書配当表】

第1学期、久野英吉編輯「綴字初歩」・スペンサー「習字帖」。
第2学期、「ナショナル読本1」(バーンス商会出版)・スペンサー「習字帖」。
第3学期、「ナショナル読本2」(バーンス商会出版)前半・スペンサー「習字帖」。
第4学期、「ナショナル読本2」(バーンス商会出版)後半・バーテルス「会話篇」・スペンサー「習字帖」。

【中試業および大試業の採点法】

100点満点で採点。
一、綴字誤謬ナキモノハ全点ヲ与ヘ以下誤謬アルモノハ語数ニ比例シテ減点ス。
一、読方訳読明晰誤謬ナキ者ハ全点ヲ与ヘ以下其熟否ニ従フテ品等ヲ附シ減点ス。
一、同上ニシテ誤読若クハ誤訳スルモノハ1語毎ニ5点ヲ減シ且一旦誤読若クハ誤訳スト雖モ自ラ其誤謬ヲ覚知シ更正スルモノハ2点ヲ減ス。
一、習字字画及位置正シク運筆巧ナルモノハ全点ヲ与ヘ以下其巧拙ニ従フテ品等ヲ附シ減点シ且誤字アルモノハ語数ニ比例シテ減点ス。
一、会話節ニ適スルモノハ全点ヲ与ヘ以下誤謬アルモノハ全体ニ比例シテ減点ス。

【中試業および大試業の問題の程度】

第1学期、綴字10個・習字およそ3行。
第2学期、読方訳読各およそ5行・習字およそ5行。
第3学期、読方訳読各およそ7行・習字およそ7行。
第4学期、読方訳読各およそ10行・会話3個・習字およそ10行・前各学期のうち読方訳読各およそ10行。

教授法に関する規定はない。

この規則の制定直後の高等小学校では、英語よりも農業や商業を加設する傾向が強かった。明治20年12月末時点の県内の小学校は、簡易科451校、尋常科 199校、高等科25校の、合計675校だった。

明治20年より英語を加設した小学校には、砺波郡遷喬小学校(英語・農業)、射水郡立卓立小学校(英語週2時間・商業1時間)があり、明治21年より英語を加設した小学校には、射水郡氷見郷小学校(英語・農業)、砺波郡砺波小学校(英語・農業)があった。

明治20年4月の高等小学校設置にあたっては、従来の高等科に在籍する生徒は編入試験を経て適当な学年に移行することになっていた。このため、高等科1学年を飛び越えて2学年以上に移行してくる児童に対して英語を課す場合の、学習上の問題点が指摘された(射水郡愛日小学校より伺い)。

明治20年6月の上新川郡第五試業区域生徒競励会では、一等(各科80点以上)及び二等(各科平均73点以上、ただし2学期は78点以上)の者に、英語教科書「ナショナル読本1」が賞品として授与された。受賞者の内訳は、一等は高等科1名、尋常科8名。二等は高等科1名、尋常科20名。なお、簡易科の生徒には別の賞品が授与された。

明治20年8月27日から9月3日にかけて、師範学校において富山県教育品批評会が開催され、生徒作品として「英習字」が独立した部門として出品された。英習字の4位以上の入賞者は、上新川郡7名、下新川郡20名、婦負郡0名、射水郡5名、砺波郡5名、中学校0名、師範学校0名で、少なくともこれらの郡には英語を教える学校があったことがわかる。ただし、各等の入賞点数は、1等なし、2等1点、3等8点、4等28点で、他の部門に比べて成績は振るわなかった(審査員講評)。

明治20年に選定された英語教科書の価格は、「ナショナル読本1、2」が2冊で28銭、「スペンサー習字帖」が5冊で40銭と定められていた。

2010年5月 4日 (火)

富山県中学校(旧制)の英語カリキュラム

富山県中学校(旧制)設立当初の、英語課程・教科用図書配当表を以下に示す。

Tomichueng また、授業の概要は次の通り。

【授業ノ要旨(英語)】

英語ハ其用殊二廣キ外国語ニシテ中人以上ノ業務ヲ執リ又ハ高等ノ学科ヲ修ムルニハ其智識ヲ要スルモノ頗ル多シ故ニ之ヲ分テ綴字讀方譯讀讀書文法習字作文翻譯トス

綴字ハ英語ヲ教フルノ始メニ於テコレヲ課シ文字ノ名、及ヒ音、母音、子音ノ区別分音法等ヲ授ケ以テ発音ヲ正シクスルヲ旨トス稍(やや)習熟スルニ至ラバ教師時ニ単語短句ヲ唱ヘ生徒ヲシテ或ハ分音和誦(わしょう)セシメ或ハ之レヲ書取ラシメ以テ綴字ノ法ヲ会得セシムルヲ要ス

讀方ハ稍綴字ノ法ヲ解スルノ時ヨリ之ヲ課シ音声ノ抑揚句讀ノ断讀ヲ明ニシ聴者ヲシテ容易ク意義ヲ会得セシムルニ在リ且誦讀ノ際音調ヲ正クシ状貌(じょうぼう)ヲ整ヘシメンコトヲ要ス

譯讀ハ讀方ヲ課スルノ際之ヲ授ケ英語ヲ邦語ニ譯シ意義ヲ了解セシムルヲ旨トス故ニ其譯スル所ノ語句ハ自ラ章ヲナシ或ハ之レヲ誦シ或ハ之レヲ筆シ得ルニ至ラシメンコトヲ要ス

讀書ハ讀方譯讀ヲ兼ネ授クルモノトス之レヲ授クルニハ生徒ヲシテ讀方ヲ正シクシテ章句ヲ誦讀セシメ教師其意義ヲ講明シ或ハ生徒ヲシテ之レヲ解釈セシメ遂ニ直讀以テ其意義ヲ了解スルノ力ヲ養成スルヲ旨トシ又時ニ書中緊要ノ章句ヲ書取ラシメ以テ聴感ヲ練リ筆記ニ慣レ綴字ニ熟シ兼ネテ行文ノ例格ヲ知ラシムヘシ

文法ヲ授クルノ要ハ英語ヲ理会スルノ力ヲ鞏固(きょうこ)ナラシメ其實用ヲ助クルニ在レハ言詞章句ノ法則用格等ヲ知ラシムルヲ要ス

習字ハ字形鮮明ニシテ運筆快捷(かいしょう)ナランコトヲ旨トス故ニ先ツ姿勢執筆ノ法ヲ授ケ次ニ大字細字ノ書法ヲ教ヘ漸次運筆ニ習熟セシムルヲ要ス

作文ヲ授クルニハ先ツ卑近ノ文題ニ就キ簡易ノ文章ヲ作ラシメ或ハ埴語(しょくご)正誤ノ法ヲ用ヒテ作例ヲ知ラシメ漸ク進ミテハ記事文書牘文(とくぶん)ヲ作ラシメ而シテ其構文撰題ニ注意スヘキコトハ和漢文ノ作文ニ於ケルガ如シ

翻譯ハ英文ヲ和譯シ又ハ和文ヲ英譯スルニ當リコレヲ文字ニ表彰シテ意義通暢(つうちょう)ナラシムルニアレバ簡易ナル記事書牘等ヲ翻譯セシメ其撰題ハ務メテ實用ニ適切ナランコトヲ要ス

以上、「富山県中学校規則」(明治17年6月30日制定)による。

[メモ]

この教授要旨は明治15年5月制定の「大阪中学校教則」をほぼそのまま踏襲したものである。(松村幹男「明治10年代における中学校英語教育─教授要旨の 制定過程について─」『英学史研究』第16号)
なお、最後の「翻訳」は、「大阪中学校教則」には見られない分科である。他県に同様の例があるかどうかは現在のところ不明。他に例がないとすれば富山オリ ジナル。
作成にあたり、誰がどのように関わったかは現在不明。初代校長で富山に来る直前まで愛知県にいた田中貞吉か?大阪専門学校(のちの大阪中学校)出身の保田 廣太郎か?はたまた富山県学務課員の誰かか?國重正文が京都から連れてきた三宅五郎三郎は?
なおまた、同時期の山口中学校のものとは大きく異なる。

2010年4月21日 (水)

開拓使仮学校の森本弘策教授

開拓使仮学校の森本弘策教授

北海道大学所蔵の「壬申日誌」によると、明治5年3月12日、森本弘策は開拓使仮学校の教授並算術方として出仕。官等は八等。

開拓使仮学校とは、札幌農学校(明治9年に札幌で創立)の前身校である。明治5年3月に芝増上寺本坊内の開拓使東京出張所に設置された。事実上の責任者は開拓使五等出仕新井郁之助であった。

「壬申日誌」では森本弘策の名前は2回登場し、最後に登場するのは、約3か月後の同年6月24日である。

出典:『北大百年史、史料(一)』

[メモ]

これまで、明治3年5月以後の森本弘策に関する足跡は、明治6年6月に開拓使に採用されるまでの3年間が空白となっていたが、今回の発見で、そのうちおよそ3分の1が埋められることになった。

「壬申日誌」にはまったく同時期に森本武安の名も出てくる。武安もまた「教官」にして「八等出仕」の「東京府人」である(壬申六月改『官員全書』)。両者が同一人物であった可能性はまだ捨てきれない。なお、武安は兵学寮や南校に出張するなどしている。

森本弘策の開拓使採用にあたっては榎本武揚の引きがあったのではないかと思っていたが、榎本自身の採用は森本の採用の6日前の明治5年3月6日(四等出仕)であるので、森本の採用に影響を与えるには時間が少なすぎるような気がする。

森本弘策の教官としての官等は比較的上位に属していた。たとえば、英学教官も同時期に複数採用されているが、みな十一等以下である。

森本弘策は、富山では英学教師として藩学校に採用されたのだったが、開拓使仮学校では算術の教官として採用されている。元々どちらが得意だったのだろうか。少なくとも、それなりの学力や経歴を見込まれての事ではある。

2010年3月14日 (日)

林好一郎に関する覚え

真宗王国と呼ばれた明治初年の越中高岡では、各派を代表する大寺院に、小規模ながらたびたび中等教育機関が設けられた。

明治9年、真宗本願寺大谷派は同派住職の人材養成を目的として、片原横町超願寺に「越中教校」を創設。19年頃までには中学校と同程度の普通学科を備えていたとされる。一方、真宗本願寺本派は、明治14年10月、伏木古国府に「水波教校」を設立し、大谷派の「越中教校」の向こうを張った。

この水波教校は18年に高岡町の中心地である片原横町に移転したが、『中越新聞』明治19年6月14日号に、同校では明治18年11月より育英校教員林好一郎を招いて課業中に英学科を加え、生徒も甲乙二科で60名を数えたとある。また、同記事には、「片原町高陵学術研究所」でも林を招いて夜学に英学科を設け、こちらは生徒数40名にのぼったという。

本当にこのように多くの英学生徒が集まったかどうかは大いに疑問のあるところである。しかし、水波教校は、明治17年9月に越中義塾が閉鎖されて以後、越中高岡で久々に現れた英学を教授する学校であったから、越中の英学を考える上で同校の存在は無視できない。

林好一郎とはどのような人物だろうか。筆者の手元にある明治14年の『慶應義塾入社帳』に林の名が登場する。これによると、林は越中城端別院善徳寺(真宗大谷派)の門前町越中国砺波郡東新田町の平民林庄兵衛長男。慶応元年6月17日生まれ。慶應義塾の入社は明治14年5月2日。したがって、入社時の年齢は数え年17歳である。

林の学歴、あるいは学力については、現在のところこれ以上のことは不明である。慶應義塾入社時の林の年齢であれば本科で学んだ可能性があるが、慶應義塾の記録では本科卒業生の中に名前がない。本科を中途退学したか、予科、あるいは別科で短期間学んだのか、いずれもありうる。また、慶應入社時の明治14年5月は、同年11月の越中義塾設立のほぼ半年前である。越中義塾の設立後であればこちらに進学していたかもしれない。

いずれにせよ、慶應義塾入社時の林の年齢はそれなりに高いが、当時の高岡には英語を学ぶ手段がなく、予備知識はほとんど無かったと思われる。しかし、慶應義塾では、たとえ予科であっても最低限基本的な英語は学ぶことができた。水波教校で僧侶の卵たち相手に入門英語を教える程度のことなら可能だったであろう。

むしろ不思議なのは、なぜ林がわざわざ慶應義塾を志したかである。城端が善徳寺の門前町として栄えた文化の町であることはわかる。しかし、現在のところ、筆者は好一郎につながると思われる有力な「家」を発見できないでいる。東新田町であれば善徳寺の目の前であるから、当時としてはかなり裕福な家であったことは間違いないであろう。ひょっとしたら、寺と関係があったかもしれない。ちなみに、明治6年に越中人として初めてオクスフォード大学に留学し、南條文雄と共に梵語を研究した笠原研寿は、善徳寺の脇寺真宗大谷派恵林寺の学僧であった。

ともあれ、慶應義塾に学んだ以上、林にもそれなりの野心家があったと思われる。林は大正2年から3年にかけて、小樽の官立の商業学校(小樽庁商)で教員をしていた記録がある(当時の教員名簿は倉田稔「小林多喜二伝-小林多喜二と小樽 : 庁商の時代,後半」等に引用されている)。林の高岡での本務校であった「育英校」は、当時としては高岡で最も新しく設備の充実した小学校で、教員のエリート意識も高かったが、しょせんは小学校であるということで、林としては満足できなかったのではないだろうか。

ちなみに、倉田論文が間接的に指摘しているように、林の小樽庁商での在職中、小林多喜二が一生徒として在校していたが、両者の間に交流があったかどうかは不明である。

2010年3月 1日 (月)

赤尾清長

ありゃりゃ、困ったな…赤尾清長は明治7年から9年まで新川県に出仕してるみたいだよ~。新川県士族ってことになってる。

勝手に正体不明にしちゃってたよ。失敗失敗。

それにしても、どこで写真を習ったんだろうね?

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