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2007年3月23日 (金)

金子堅太郎と山田顕義

金子堅太郎はハーバード・ロースクール卒業後の明治11年11月、司法省での任官を希望し、当時の司法卿大木喬任・司法大輔山田顕義の両人に対して、故郷福岡県の県令渡邊清が書いてくれた推薦状を提出した。渡邊はこの時、「司法卿の大木喬任は俺の舊友であるし、又司法大輔の山田顕義も俺の舊友である」と言って、自信満々の様子であったが(『金子堅太郎著作集第一集』「懐舊談」p.218)、これは渡邊が肥前人だったからであろう。

金子はかつて岩倉使節団に留学生として同行し、山田はその使節理事官であったが、当時の金子は筑前黒田家の一家従に過ぎず、両者の間に直接の交流はなかった。したがって、山田が金子を知ったのは、事実上この時が初めてである。

ところがこの時は、確かに渡邊の推薦状は効力を発揮し、いったん司法省での登用が決まりかけたものの、俸給額で折り合いが付かず、金子は任官を辞退している。提示された月給二十五円は、東京大学卒業の法学士の初任給と同額であったが、世界に名だたる名門ハーバード大学出身を自負する金子は、「それでは母校の名誉にかかわる。少なくとも百円はもらえるはず」と主張して憚らなかったのである。(『金子堅太郎著作集第一集』「懐舊談」p.219)

このあと金子は、東京大学予備門や慶應義塾の教師となってしばらく糊口をしのいでいたが、一年余り後の明治13年1月、元老院雇となり、ようやく念願の政府役人となることができた。

過去に一度司法省への任官を断った金子堅太郎が、後年山田顕義のあつい信任を得るに至ったのは、明治14年6月、金子がバーク学説の抄訳を元老院副議長の佐々木高行に提出したところ、その内容に感心した佐々木が、山田顕義にそれを示したことがきっかけであった。山田は金子の学識に惚れ込み、日曜ごとに金子を私邸に招いて質疑を行ったり、同年12月に内務卿に就任すると、金子が翻訳した『政治論略』を地方官に推薦するという熱の入れようであった。金子自身も、この一年間に、権少書記官から少書記官、そして権大書記官へと、異例の早さで昇進している。(『金子堅太郎著作集第一集』「自叙伝綱領」p.138-144)

明治16年4月、「地方巡察条規」が定められ、北陸・東山地方の地方巡察使には、この当時元老院議官を勤めていた渡邊清(元福岡県令)が任命された。地方巡察使には二名の随行員が従うことになっており、渡邊の随行員には、以前から面識のある権大書記官金子堅太郎と、五等書記生壁谷可六が任命された。(『明治十五年十六年地方巡察使復命書 上巻』p.81)

こうして、金子は、この年石川県から分県したばかりの新生富山県に、一番最初に足を踏み入れた中央政府の役人となったのである。渡邊・金子らの地方巡察使一行が富山を訪れて調査を行ったのは、明治16年5月16日から31日までの約二週間で、5月9日の富山県設置からわずか一週間後のことであった。(『明治十五年十六年地方巡察使復命書 上巻』p.515)

地方巡察使派遣の目的は、この時代に全国で高揚していた自由民権運動、そして国会開設運動の監視・規制にあったと言われる。(『明治十五年十六年地方巡察使復命書 上巻』p.100)民権派の主導により分県を勝ち得たばかりの富山もまた、中央政府が最も警戒する対象のひとつであった。初代県令に、内務卿山田顕義の後輩で、山口萩出身の國重正文が発令されたのも、このこととまったく無関係だったとは言えない。

しかし、その一方で、地方巡察使のもたらす各地の最新情報をもとに、地方の内治・勧業・工業・教育振興を図るべき立場にあったのも山田顕義であり、山田はそもそも地方巡察使制度の推進者のひとりであった。(『明治天皇紀五巻』「公文別録」[『明治十五年十六年地方巡察使復命書 上巻』p.51-52に引用])そして、金子自身も、この時の地方視察をきっかけとして地方行政に関心を抱き、地方行政法の研究に着手する。

金子の富山視察から約一年後、金子のかつての留学仲間の一人であった田中貞吉、そして、金子の親友でやはり留学仲間の一人團琢磨の、かつての部下であったと考えられる保田広太郎が、相次いで富山を訪れ、富山県師範学校、富山県中学校の要職に就任する…。果たしてこれは偶然と言えるだろうか?

[補足]

筆者(Shakes)は最初、アメリカ留学から帰国したのち、金子と田中貞吉の交流は途絶したと考えていました。しかし、三浦蒼由さんが教えてくださった「金子堅太郎自叙伝」「同著作集」「團琢磨伝」などの資料を分析した結果、現時点ではそのような断定はできないことに気付きました。三浦さんに深く感謝いたします。

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コメント

“金子の富山視察から約一年後、金子のかつての留学仲間の一人であった田中貞吉、そして、金子の親友でやはり留学仲間の一人團琢磨の、かつての部下であったと考えられる保田広太郎が、相次いで富山を訪れ、富山県師範学校、富山県中学校の要職に就任する…。果たしてこれは偶然と言えるだろうか?”

おもしろいですね。わくわくして読ませていただきました。

人事のウラには、しかるべく必然もあれば、しからざる偶然も多いにありですから――国重と書記官であった滝との間に確執があったということが、「偶然」人事の結果だったのかどうか私にはわかりませんが――この一連の人事の状況証拠を裏付ける強力な別資料発見の続稿を楽しみに期待しています。

かぐら川さん、コメントありがとうございます。
本当に、そのあたりが一番つらいところです。金子が富山を巡察したのは、確かに富山県置県の日付以降なのですが、この時期にはまだ富山県庁が機能していなかったようで、復命書には國重正文との会談は記録されていません。実際に石川県から分離するまでには、かなり時間がかかったのですね。でも、偶然にしては出来過ぎという感じですよね。。。あくまで想像ですが、新任県令の國重にとっては、富山に関する巡察使の報告はとても興味があったろうと思います。巡察使は各地で煙たがられたそうですが、國重がもし金子らに会っていたら、むしろ積極的に話を聞こうとしたのではないかなあ、なんて。。。金子の個人的な紀行文の存在など、いくつか確かめたいこともあるのですが、例によって、まだまだこれからです。

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