富山の英学覚え書き
先日、ある会合でこんな話をさせていただきました、、、が、評判は最悪でした(苦笑)。出来損ないの見本みたいなつまらない文章ですが、反古にするのも惜しいので、ここに晒しておきます。
はじめに
今日は越中富山の英学について、幕末から明治20年代までの流れを、本当にかいつまんでではありますが、概観させていただこうと思います。
残念ながら、越中富山の英学は、他に比べ相当遅れて発達したと言わなければなりません。その理由としましては、もともと宗藩加賀藩と幕府による二重支配の圧力があり、諸外国に対する自主的な対外政策を取ることが難しかったことがあります。この状況は立藩以来の慢性的な財政難とも密接に絡んでおります。具体的には、藩財政の破綻への対処法を巡っての、例の第十代藩主前田利保と第十二代藩主利聲(としかた)の対立がありましたが、これに大火・大地震・凶作の被害などの難問が追い打ちを掛け、ついには宗藩の介入を受け、富山藩の藩政が、大聖寺藩と同様に、前田斉泰の管理下に置かれるという事態に至りました。さらに決定的な打撃は、幕末維新の激動期に発生した、藩校廣徳館の焼失でした。こうして、独自の英学教育機関の設立が遅れ、人材と学びの場を、長期間にわたって外に求めることとなりました。これがそのまま、富山の英学の特徴をよく表しているのではないかと思います。
1.漂流譚
北前船長者丸漂流の一件(天保9年(1838)-天保14年(1843))は、越中の被支配階層が英米文化に直接触れた最初の体験であるとともに、宗藩による支配体制の本質を象徴する出来事であった。
藩政期の越中に英学の専門家がいたとか、本格的な英学校があったという記録は残っていないようです。しかし、十代富山藩主前田利保は本草学・物産学に深い関心を寄せて蘭学者を保護し、大坂(適塾)、長崎などで学んだ化学者や医師がたくさん出ました(高岡の高峰精一、上市の黒川良安(まさやす)ら)。彼らは医学のみならず、天文、測量、兵学にいたるまで広く西洋の学問を研究していましたから、幕末期を迎えるまでには、越中にも英学を受け入れる素地は十分できていました。彼らが蘭訳・漢訳本などを通じて間接的に英語に触れていた可能性は高いと思われますが、生の英語に直接触れる機会をいち早く持ったのは、実際にはそうした学者たちではなく、越中西岩瀬から出航した北前船長者丸の7人の漂流民など、ほとんど名もない庶民たちなのでした。彼らの見聞した諸外国の風俗は、『蕃談』や『時規物語』(嘉永2年(1849)成立)として記録されました。
『蕃談』は昌平黌の儒者古賀謹一郎の聞き取りが元になっていますが、『時規物語』は加賀藩での取り調べにより成立した史料です。巻末には露・米・布哇語を対照したグロサリーが附録としてついています(『蕃談』にはありません)。一地方で作製された英学史料として大変貴重なものですね。また、本文中にはハワイの風俗も描かれていますから、これらを詳細に分析することで、越中の名もない民衆が、どのような態度でアメリカ文化に接し、それを受け止めたかを知ることができるのではないかという期待があります。なお、『蕃談』については写本も多く、のちの開国に大きな影響を与えたと言われておりますが、『時規物語』の評価はまだ定まっておりません。同書は加賀藩士遠藤数馬高璟(たかのり)を中心に、黒川良安(まさやす)らの協力によって編纂され(黒川は外国語担当)、遠藤は加賀藩きっての自然科学者で、藩の要職にもあった人物です。しかし、『時規物語』は藩主お手元の秘蔵本とされ、長い間人々の目に触れることはありませんでした。富山藩でも、自藩の領民の取り調べを宗藩に任せきりにするなど、主体的な対応を行ったとは言えないようです。今後の研究の進展に期待します。
2.幕末の動乱(慶応年間)
越中富山で最初に英学を学んだのは、元治元年(1864)長崎に遊学した林太仲や、金沢の壮猶館に派遣(慶応3年(1867)2月-同年12月)された森田三郎ら若手藩士であり、その目的は西洋の軍制や砲術の学習を通じ、藩政改革と海防整備に寄与することであった。
幕末の開国期から明治維新にかけて、海防の充実をはかるとともに、新しい時代を迎えるにあたって予想される国内動乱に備える必要が生じ、フランス式やイギリス式などの、新しい西洋兵学を学ぼうとする機運が全国的に高まりました。越中富山藩でも、藩校廣徳館内で西洋流砲術の研究を始めるとともに、藩政改革を断行するための人材育成を目指し、優秀な若手藩士を江戸、長崎、金沢などに遊学させます。中でも元治元年(1864)長崎に遊学した林太仲は、藩命によって英語を学んだ最初の富山藩士でした(フルベッキからといいます)。長崎遊学で国際的視野を身につけた林は熱烈な革新主義者となり、のちに大参事として藩政を掌握。「合寺令」の中心人物として全国的に名を馳せます。また、富山藩兵の中核を担った「新調組」の司令士森田三郎直寛は、慶応3年(1867)に金沢柿木畠の壮猶館で、砲術と英学を学んでいました(森田は慶応4年(1868)6月22日に北越戦争で戦死)。
富山藩改革の急先鋒であった林太仲や入江民部(みんぶ)の息子たちは、のちに富山藩貢進生として大学南校に入学します。彼らが同校に入学した頃は、富山藩の兵制はフランス式だったことから、彼らは皆フランス語専修でした。ところが、在学中の学制改革によって教授内容の中心が英語に移ったことから、大変な苦労を強いられます。このうち林太仲の養子忠正は、長年学んだフランス語の知識を生かそうと、大学予備門を卒業直前に退学し、フランスに渡って美術商として大成功を収めました。近年、忠正は日本美術を西洋に紹介した先駆者としての評価が高まっています。また、入江民部の二男鷹之助は、英学への転向に成功し、東京大学法学部を卒業。のちにアメリカに渡り、富山出身者で最初の米国法学博士の学位を取得し、判事・弁護士として活躍しました。彼らの親の世代にとって、英学は日本の古い因習を打破するための武器でしたが、子の世代にとっては、西洋文化と日本文化の交流を進める手段としての性格を強めていたと言えましょう。
3.富山藩英学校(明治2年~4年)
越中富山の藩学校で、初めて英学が正式に教授されたのは、版籍奉還により宗藩の支配を脱した以後であり、その教師は越中と一切ゆかりのない、箱館戦争降伏人の森本弘策(天保13年(1842)生まれ、明治2年(1869)10月富山藩変則英学校着任-少なくとも明治3年(1870)5月まで滞在)であった。
明治元年9月、藩校廣徳館が火災で焼失し、長年にわたって蓄積されてきた数万冊の蔵書が灰燼に帰しました。漢学の伝統は大きな打撃を受けますが、この災害は藩校教育を根本的に改革するきっかけともなりました。同時にこの時期は、版籍奉還(明治2年6月)などの大変革が相次ぎ、富山藩ではかつての宗藩の意向に左右されない独自の動きが目立ち始めます。藩では藩校教育の場を民邸に移すとともに、明治2年10月、英学教師森本弘策を招へいし、新たに変則英学校を設けて英学の教授を開始します。これが富山における組織的英学教育の始まりです。森本は戊辰戦争(箱館戦争)の降伏人(各藩預かり人)でしたが、幕府海軍副総裁榎本武揚のあつい信任を受けた優秀な技術官僚でした。明治初年にはこの英学校の他に、西洋医学校(教師は高峰譲吉の父高峰精一)や、洋学を教授する藩学校が続々と誕生し、藩ではこれらで学んだ優秀な学生たちを積極的に国内遊学させ、人材の育成に努めました(ただし、海外への藩費留学生は一人もありませんでした)。
もともと旧幕府海軍には、海軍の伝習所などで学んだ優秀な人材が豊富にいました(ちなみに、あの咸臨丸の機関長で、アメリカからの帰国を事実上指揮した小杉政之進は、曾祖父が富山藩の出身でした)。江戸幕府が瓦解したとき、彼らの半数近くは徳川氏の転封に従って静岡に移住し、のちに沼津兵学校からの英学教師や技術者などの派遣を通して、全国に活躍の場を見いだしていったことはよく知られています。一方、静岡移住を潔しとせず、榎本武揚に従って新政府軍と戦った人々の多くは、再就職先を見つけるために大きな苦労を強いられました。そうした人々の多くを救ったのが、彼らがかつて学んだ英学の知識です。富山藩のように降伏人を藩の学校で一時的に雇用した例や、福井藩や津山藩のように正式に藩士として召し抱えようとした例は二、三に留まりません。彼らが英学の普及に果たした役割は大きいはずですが、その実態についてはまだまだ不明な点が多く残されていて、今後の研究が待たれるところです。
なお、森本弘策の学歴は大部分が不明ですが、弘前本行寺での謹慎中に、当代随一の幕府の通詞だった山内六郎から英語を教わったことはほぼ確実です。榎本武揚や大鳥圭介など主要な箱館戦争降伏人たちは、最終処分が決まるまでの明日の命も知れない日々を、泰然自若として英学に打ち込みました。私たちは、彼らのその精神こそ学ぶべきではないかと思います。
4.学制期・伏木小学校(明治5年~7年)
越中富山で最初の公立小学校は、開明的な民間人の手によって英語を教える学校として設立され(明治6年(1873)2月)、人々は新しい時代にふさわしい西洋の学問を移入しようとする高い意欲に燃えていた。
明治4年7月の廃藩置県により藩学校の多くが姿を消しますが、明治5年に「学制」が頒布され、富山県内(当時新川県)でも小学校が次々と誕生します。新しい時代の学校教育に対する人びとの期待は大きく、多くの場合、学校設立運動の中心には慶応などで英学を学んだ人たちがいました。たとえば、県内最初の小学校である伏木小学校の初代校長には、慶応出身の吉田五十穂が地元の素封家藤井能三(1846-1893)によって招かれ、伏木小学校は最初、英語が習える学校として人気を集めます。県制定の教則や学校設置基準が徐々に整備されていく中で、伏木小学校で英語が教えられたのは1年足らずの短い期間でしたが、開校当初は週6時間の英学関連の授業があり、教科書なども最新の翻訳書を吉田が自ら選ぶなど、基本的には「学制」の趣旨をふまえながらも、先進的で独創性あふれる教則が用いられていました。
この吉田五十穂は嘉永元年(1848)頃大聖寺に生まれ、幕末の大聖寺藩最大の経世家東方芝山(ひがしかたしざん(1813-1879))の元で学び、慶應義塾に遊学。卒業後は土佐で小学校の創設に関わっていました。藤井能三が吉田と出会ったのは、藤井が山代温泉で療養中に、東方と学校開設の相談をしていたところ、上京の途上師の元に挨拶に訪れた吉田を紹介されたのがきっかけでした(ちなみに、伏木小学校の最初の教則は、東方が設立した山代小学校のものが元になっています)。大聖寺の知識人たちと藤井の出会いは偶然のようにも見えますが、かつて富山藩は大聖寺藩から藩主を迎えるなど(第九代前田利幹(としつよ))、いずれも加賀藩の支藩として、藩政時代から人的交流が盛んでした。この伝統は明治に入ってからも続き、英学の関連で言えば、同じく東方の元で学び、琵琶湖に初めて蒸気船を就航させ、のちの川崎造船所の礎(いしずえ)を作った石川嶂(いしかわたかし(1839-1914))もまた、後年伏木を訪れています。石川は伏木でも汽船事業を興すとともに、明治20年頃には伏木町で英語夜学会を開設しました。
5.師範学校・到遠中学の英学(明治8年~13年)
越中富山の最初期の中等教育機関(変則中学校等の廃校ののち、致遠中学校が明治10年(1877)開校)は皆ごく短命に終わったが、越中商人の援助を受けた慶應義塾出身者を中心に、英学導入の努力が地道に続けられていた(明治8年(1875)9月新川県講習所で英学を開設)。
明治初年に英学を学んだ越中人は、開成校遊学生や大学南校の貢進生など、大部分が藩士の中から選ばれた派遣遊学生達でしたが、明治8年頃から、慶應義塾に平民の越中人が入学し始めます。彼らの多くは豪農や海商の子弟、そして大商人の学資援助を受けた若者達であり、帰郷後、教育界や政界に続々と進出します。こうした英語の学習意欲の高まりを背景として、明治8年9月には、本来小学校教員の養成施設である新川県講習所において、英語の課外授業が開設されます。さらには、中等教育機関の教師として通用する高度な学力を持つ越中出身者も現れるようになり、たとえば、致遠中学校(上新川・婦負郡立)の開校時(明治10年)と明治13年頃の石川県富山師範学校と富山医学所には、苦学して慶應義塾に学んだ松岡直忠(安政6年(1859)-)が採用されています。松岡の才能を見込み学資の援助をしたのは、越中売薬で財をなした中田清兵衛です。
この時期に英学を学んだ越中人で、極めて特異な経歴の持ち主に、福光出身の松村西荘(精一郎)(嘉永2年(1849)-明治24年(1891))がいます。松村は明治10年代に『郵便報知新聞』の寄稿で有名になり、『中越新聞』の客員として招かれたこともある漢詩人で、これより先の明治13年に「私立金沢盲亜院」の設立を計画。これは途中で頓挫しましたが、明治21年には金沢市最初の私立学校「戊子義塾」を創設して中等教育にあたり、3年後に41歳の若さで亡くなりました。驚くべき事に、松村は幼少時に罹患した天然痘が原因で、聴力を失い、会話が不自由となり、歩行も困難となるという三重苦を背負いながら、筆記によって英語を学び、本格的な翻訳書(ミッチェル『万国地誌階梯』明治8年脱稿、19年出版、20年文部省検定教科書指定)まで出しているのです。松村に英語を指導したのは、金沢医学館第一期生の稲坂謙吉(嘉永4年(1851)-昭和3年(1928))という名医で、黒川良安の甥にあたる人物です。具体的にどのようにして稲坂は英語を教えたのか、とても興味深いところですね。なお、松村の住む福光は地理的に金沢にきわめて近く、藩政時代には加賀藩領でもあったことから、この地域には金沢に学んだ人々が大勢います。
6.自由民権運動・越中義塾(明治14年~17年)
越中高岡の越中義塾(明治14年(1881)11月開設)は、民間による私立中等学校設立運動の結晶であるとともに、改進主義者らを中心とした自由民権運動活動家の一大学習拠点でもあった。
明治9年4月、越中全域(当時新川県)が石川県に吸収合併させられます。そもそも加賀・能登と越中では地理的条件や民情が大きく異なっていたことから、石川県会では土木費や教育費を中心とした県費の配分等を巡って両地域が激しく対立し、越中での公立中等学校の整備は大きく遅れてしまいました。そこで、英学を通じ新しい政治思想を学んでいた越中の民権活動家たちは、分県独立運動に取り組むとともに、中等学校の設立にも力を注ぎます。こうして明治14年11月、自由民権思想家の海内果(嘉永3年(1850)-明治14年(1881))と改進党系の大橋十右衛門(安政6年(1859)-昭和15年(1940))らによって、高岡最初の中等学校「越中義塾」が設立されます。同校では熊本バンドの一員として高名な英学者和田正修(安政5年(1858)-昭和9年(1934))らを招き、慶應義塾をモデルとした非常に高度な英語教育を行いました。塾は明治17年9月に閉鎖されますが、次世代の富山を担った多くの若者がここで学んでいます。
「越中義塾」はその名の通り、慶應義塾に倣って設立された学校ですが、単なるコピーだったとは言えません。確かに、中核となった2代目・3代目の英語教師たちは慶応の出身で、塾主福沢諭吉とも学校運営の件では常に連絡を取っていました。しかし、最初の英語教師で、越中義塾設立の相談を受けた和田正修は慶応の出身ではありません。「越中義塾規則」には、慶応の授業の特徴である「作文演説」が科目としてあげられていますが、第2学年からは英語を交えた演説が求められ、これは和田の卒業した熊本洋学校の特徴でした。なぜ和田が慶応と結びつくのか、東京で何をしていたのか等、他にも多くの不明な点があります。ただ、和田は同志社の卒業演説で「法律と道徳の区別」を論じていて、もともと政治には強い興味を抱いていたようです。明治27年(1894)に熊本六区から改進党所属で出馬していますから(次点で落選)、高岡での改進党系活動家らとの交流は、彼の政治思想に大きな影響を与えたか、東京で出会った海内果らに対し、何かしらの共感を抱いたからこそ、はるばる越中の高岡まで乗り込んできたのかもしれません。
7.富山県中学校の設立(明治18年~)
石川県からの分県独立(明治16年(1883)5月9日)で、独自財源獲得に成功した富山県が最初に取り組んだ施策は公立中学校の設置(富山県中学校、明治18年(1885)1月25日開校)であり、最初の教師は岩倉使節団同行留学生であった。
明治16年5月、分県独立運動が功を奏し、現在の富山県が成立しました。初代県令に就任した國重正文(天保11年(1840)~明治34年(1901))は長州藩の出身者でしたが、かつての藩閥出身者と違って議会との関係を重視し、内務卿(のち司法卿)山田顕義(弘化元年(1844)-明治25年(1892))らの支援を受けながら、新生富山県の基盤整備に努めます。中でも教育水準の向上には特に力を入れ、優秀な教育者たちを全国から富山に招きました。そのうち、富山県中学校の初代校長に就任した田中貞吉(安政4年(1857)~明治38年(1905))は、かつて岩倉使節団に同行し、米国に渡った留学生で、ボストンで義務教育課程を正式に卒業後、アナポリス兵学校に進んだ海軍省の官僚でした。田中は自分が受けた米国の学校教育を参考に、富山県中学校の基礎を作りました。また、師範学校の事実上の首座教師となった保田廣太郎(安政6年(1859)~明治31年(1898))は服部一三(嘉永4年(1851)~昭和4年(1929))の愛弟子で、大阪専門学校出身の英語に堪能な科学者でした。保田は富山県の理科教育の近代化に務めるとともに、大学・専門学校など上級学校への英語による進学指導と、高等小学校の英語教師の養成を行う「私立富山英語学校」を設立して、富山における本格的な英語教育の普及を図りました。
田中貞吉のような優れた人材を富山に連れてくることができた背景には、國重正文あるいは山田顕義の働きがあったことは間違いないのですが、直接には元老院大書記官で、伊藤博文の秘書官も勤めていた金子堅太郎(嘉永6年(1853)-1942年(1942))の推薦によるものではないかと思われます。金子もまた岩倉使節団同行留学生の一人で、團琢磨(MIT卒業、実業家)、吉川重吉(ハーバード卒業、外交官)、そして田中貞吉とともにボストンのライズ・グラマー・スクールに入学し、この4人は個人的にも大変親しい関係を築いていました。このうち、團琢磨は帰国後の一時期、東京大学理学部助教授をしていましたが、この時の部下が保田廣太郎でしたから、金子は保田の人事にも関係していたのかもしれません。金子は元老院に任官以来、山田顕義の篤い信任を受け、特に地方官の指導に関して、山田から常に意見を求められていました。富山県の分県独立に際しては、山田の特命を受け、國重県令の着任前の富山県に地方巡察使としておもむき、政情や民情をつぶさに調べています。
つまり、新生富山県のグランドデザインの策定を直接手がけたのは、金子堅太郎であり、田中や保田の人事も、これと無関係ではなかったのかもしれません。金子の直接の上司には、当時の政治家の中で最も国際感覚の豊かな伊藤博文がいました。特に、田中が元々海軍関係者であったことは、対大陸戦略上での富山県の地理的な重要性をふまえた上での、なんらかの「配慮」が働いた結果ではないかと考えられないでしょうか。
8.南日恒太郎のこと
富山を代表する英学者南日恒太郎は、浪人中もジャーナリズムとの強い結びつきを持ち、これが彼の英学への関心と文学観の形成に大きな影響を及ぼしたのではないか。
南日恒太郎は文学の素養の高い英語教育者で、とりわけ「ヘルン文庫」を富山に誘致した功績で知られているのですが、どのような文学観を持っていたのかについては、まだまだ研究の余地があると思います。たとえば、浪人中にラムの「ハムレット物語」の翻訳をしたことはよく知られていますし、その訳稿は今も身近に目にすることができますが、本格的な分析は出ていないようです。この訳稿は、恒太郎の浪人中に創刊され(明治24年1月25日)1年ほどで廃刊になった『平民新聞』の原稿用紙に書かれていて、同紙は富山で最古参の『中越新聞』(のちの『富山日報』)とも近い関係がありました。おそらく、恒太郎の親戚に両新聞の関係者(たぶん義兄の南日達次郎)がいたことから、彼は掲載を前提に執筆できたのではないでしょうか。恒太郎は浪人生の身でありながら、富山中学校の創立記念式典に呼ばれて演説し、それが『富山日報』に報道されるなど、マスコミとの接点を持ち続けていましたし、出身校との関係も良好でした。中央の文芸誌に臆することなく投稿を試みることができたのも、地元ジャーナリストとの交際があったからではないかという気がします。
おわりに
以上、幕末から明治20年代までの富山の英学を概観させて頂きましたが、明治20年代にいたって、県内でもようやく中等教育機関が整備され、自前の英学指導者を育てることができるようになりました。しかし、これ以降の富山の英学は、それまでとは違った、新しい目的や意義を持つ物に変わろうとするのではないかと思います。今日はその節目の所でお話を終えさせていただきます。ありがとうございました。
(平成19年9月12日 某所於)

以下は周知のことであるが、念のため記。
宮河庄
鎌倉時代
徳大寺家領の宮河庄が熊野神社を中心に形成される。
室町・戦国時代
宮河庄の一帯は婦負郡と新川郡の境が熊野川であったため婦負郡に含まれ、幕府の料所になっていたが、足利義詮が全て徳大寺家の領地にする事を許し、鵜坂神社が庄官として管理して守護の力も及ばず、諸公事も免除された。
徳大寺家の婦負郡宮河庄や般若野庄には熊野の檀那職(熊野御師が参詣者を紀伊国熊野に誘うため設置)が形成され、多くの熊野社が建てられる。
宮河庄では応永十四(一四〇七)年に国役免除が確認されていたにも拘らず、守護被官による半済(軍費捻出のため荘園年貢の半分を徴収)押妨があるが、同二十四年に半済停止・引渡しが実行された。その後守護の畠山氏が占拠していたようだが、嘉吉三(一四四三)年十二月年貢の半分を上杉治部少輔に渡す事を条件に回復される。長禄四(一四六〇)年九月に足利義政は地頭職を一色七郎煕政に宛行、文明八(一四七六)年十月一色氏配下の西郷彦右衛門尉が農民の借物未進を訴えている。明応六(一四九七)年十一月に一色政具に安堵したものの、これ以後は神保氏配下の寺嶋氏が支配する。天文二(一五三三)年十月までは徳大寺家領であった。
上杉方が支配する中、越中支配を委ねられた河田長親の仲介で元亀四(一五七三)年三月宮河庄下三郷を二宮左衛門大夫に給す。
天正十一年二月上杉景勝は寺嶋氏闕所地の宮河庄を功労地として大関親憲に給した。
下野村
寛永十六(一六三九)年に前田利常は長子光高に譲って小松城へ隠居するにあたり、次男利次に富山藩と三男利治に大聖寺藩を分与する。新川郡は加賀藩領だけではなく、富山・大聖寺両藩領も含む。富山藩祖前田利次は婦負郡百塚山に城を築くつもりで、寛永十七年に加賀藩から富山城を借りて入城する。
村社の諏訪社が水神であるように、この地一帯は水害に苦しめられつづけてきた。下野村はもともとが水草の生い茂る沼地であり、井田川の洪水のたびに土砂を押し流し、荒野となっていたのを金屋村の人々が開拓し、「自村の下の村の野」という意味で村名をつけたとも言う(『越中婦負郡志』234頁)。
その当否はともかく耕作が困難である地であることは間違いなく、正保頃の高は三七八石程度である。これは収穫量というよりは面積を意味し、分藩以前の加賀藩越中領において、二四〇歩の面積で一石高としていた。下野村では田は六町八反だけで、畑が十八町三反である。この段階での新開は四五石に止まる。
ほぼ十年後の承応四(一六五五)年時点でも五八六石、税率は13.1%に過ぎず、このうち五石分は税率が6.6%しかない。さすがに百十年も経過した明和二(一七六五)年になると、一応税率を41%の扱いにしているが、高は五二〇石でしかなく、このうち二五石が洪水で耕作不能になって非課税であった。
しかし住民の努力の甲斐もあり、二十五年後の寛政二(一七九〇)年には高が減って四七六石であるものの、新田一七〇石の開墾(税率18.9%)に成功し、領域拡大に伴い枝村も作った。藩政末には開発を終え、五四八石分が税率42%・二九一石分が33%と、ほぼ一般的な村の水準まで到達した。
下野新村
下野村で開発が進んだ要因には、牛ヶ首新用水の開鑿がある。分藩以来牛ヶ首用水を巡り婦負郡と射水郡が対立を深める。承応三年に新用水を作り、井田川に神通川の水を落とす事にし、旧の川を古江(川)・新用水を新江(川)と改めるが、寛文三年の古・新両者の水争いは深刻度を増し、両藩では六月九日に証文を取り交わして落着させた。新田開発が促進されるのはここからである。
下野新村の領域は元々が中洲であって人は住まず、開墾不能地であったろう。治水政策の成果で寛政頃に下野村の枝村(出村)として成立したのであろうが、もともと二石分の高しかなく、帳簿上の税率は40%でも、実際は新開分三二石の15%であろう。藩政末でも三五石・税率21%が限界であり、慶応四年の住民数も高持が二軒・七人(一軒に付き三・四人家族)、高を借りて耕作を手伝っていた人が一軒(四人家族)のみである。したがって村運営や祭り等を単独で行えず、下野村と一帯であったと思われる。
なお、この辺りの十村組は畠中村と同じであり、文政八年の時点で西本江組、文久元年の時点で為成組であり、井上治助が組十村であった。
用語
分掛高 同一村内で免率の違いう高や同免でも飛地になっているヶ所。
本田(畑) 基準となる検地までに村高に組み入れられた耕地。
新田(畑) その後に高入れされた耕地。
高(草高) 米一石生産する面積を仮定し、村の全面積を割る。一石高は、能美郡一七六分四厘、石川・河北郡と能登二〇〇歩、越中二四〇歩
区長 明治三年九月十村を史生加り郷長 閏十月里正 同五年二月区長・副区長を大区、戸長を小区 七月九日戸長・副戸長 同六年九月区長・副区長
なお、『黒部奥山と扇状地の歴史』に、入善の椎名氏被官両竹田氏が灯篭を寄進したことが出ている(p.363)。
投稿: 郷土史家 | 2009年6月15日 (月) 17時03分
先生、またまたありがとうございます。助かります。
いやあ、とにかく、郷土史なんて、人に頼まれてやるもんじゃないですね。相変わらず先日お話しした通りの状況です。今度またそのあたりお話しします。
投稿: Shakes | 2009年6月16日 (火) 11時57分