30学制期の富山の英学

2010年6月17日 (木)

新川県講習所英学規則

新川県講習所英学規則
    明治8年9月頒布

一 今般講習所教師本科余暇ヲ以テ毎日三時間充英学ヲ開業セシム依テ左ノ規則ヲ設ク
第一条
一 英学ノ生徒ハ齢ノ長幼ヲ問ワス総テ篤志ノモノハ入学ヲ許ス可シ
第二条
一 凡外国学ヲ修ムルモノ国書歴史ニ暗キハ学問ノ本来ヲ誤リ他日ノ用ヲナシ難シ故ニ生徒ノ年齢ト学力トニ因リ小学及中学科ヲ斟酌シ国書ヲ以テ旁ラ綴字作文及日本支那学ノ歴史等ヲ兼ネ教ユ可シ
第三条
一 教則ハ予科三級本科五級合セテ八級ヲ置キ一級ヲ六ヶ月ノ程課トス故ニ生徒在学期限ハ四ヶ年タルヘシト雖モ従前学フ所アリ其学力略予科ニ当ルモノハ直ニ本科ニ入レ在学二年半トス
第四条
一 毎級六ヶ月ノ終ニ至リ試験アル可シ此時ニ至リテ生徒学力不満ニシテ進級ニ当ラサルモノハ元ノ級ニ置ク尚六ヶ月之ヲ教フ若シ斯ノ如キコト続キテ再度ニ及フモノハ退学ヲ命ス
    但六ヶ月以内学業ノ進否ニヨリ優劣判然ナルモノハ臨時試業ヲ加ヘ登降アル可シ
第五条
一 英学ヲ修メント欲シ入学ヲ乞フモノハ従前得ル所ノ学問履歴並住所族籍ヲ書シタル短冊ヲ講習所詰学務課ニ出ス可シ
    但入学ノトキハ請人アル可シ此請人ハ当管内ニ居住スルモノニ限ル
第六条
一 生徒入学ノ上ハ毎月受業料五十銭ヲ納ム可シ
    但相当ノ授業料上納難キモノハ戸長ノ証書ヲ以テ二十五銭ヲ納ルヽヲ許ス
第七条
一 書籍等自分ニ用ヰル必需ノ習学品ハ総テ自費タルヘシ
    但書籍ハ願ニ因リ貸渡ス事アル可シ然ルトキハ拝借料ヲ納ム可シ
第八条
一 書籍貸料ハ其元価十円以下ノモノハ其二十分ノ一ヲ修メシメ元価十円以上ノモノハ三十分ノ一ヲ納メシム以上積テ元価十分ノ一ヲ増スニ至レハ乃チ其借主ニ付与ス可シ
第九条
一 受業料並書籍貸料ハ毎月三日限リ当人ヨリ上納ス可シ若シ期限ニ上納セサルトキハ請人ヨリ直ニ之ヲ出サシム可シ
第十条
一 入学ノモノ左ノ雛形ノ願書ヲ出ス可シ 雛形略之
一 入学願許可スルトキハ入場ノ際左ノ雛形ノ証書ヲ出ス可シ 雛形略之
一 相当ノ受業料ヲ納メサルモノハ左ノ入学願書ヲ出ス可シ 雛形略之
一 前記ノ入学願人ハ允可ヲ得入場スルトキ左ノ雛形ノ証書ヲ出スヘシ 雛形略之
英学教科則
予科

    第三番 文典初歩 第一リードル
    第二番 地理書  万国史
    第一番 究理書インデルメヂュート第三リードル
本科
    第五等 小経済論・米国史・近世史・アチリチカル文典 プティコリー アリスメチック
    第四等 政体書・英国史・化学書・仏国史・ロビンスン フラクチカル アリスメチック
    第三等 英政如何万国史 経済論修身論 仝
    第二等 生理書・記簿法・修身論・万国公法 ロビンスン エレメンタリー アルゼブラ
    第一等 経済論・リプレヒンタチーブ・ガブルンメント・メタヒシック・文明史 ロビンスン ハイエル アリスメチック

2008年9月13日 (土)

新川県小学教員講習所に関するメモ

新川県小学教員講習所に関するメモ

県下の小学校開設は、新川県小学教員講習所よりも早く、県下最初の小学校となった伏木小学校の開設は明治6年2月16日。

新川県小学教員講習所は明治6年10月3日、北新町の民家に開設。これより先、同年7月に変則中学校の生徒8名(一説には7名)を東京府小学教員養成所に派遣して教則と教授法を学習させ、卒業した6名を同講習所教員にあてたとされる。

明治6年9月10日、福野村の御蔵を校舎に福野第一番小学校が開校し、ここに講習所の分教場が設けられている。福野第一番小学校の教員の一人、瀬川実丞がこの分教場の勤務であり、区内の小学校で教授法の巡回指導を行う「督校」に任命されていた。この瀬川の名は、講習所の「職員一覧」にあるが、他の教員との区別は特にない。

伏木には分教場が設けられることはなかったが、伏木小学校二代目校長の林慶作(在職明治6年7月~明治7年3月)もまた「督校」であった。林は伏木校長退任後に講習所に移ったとされるが、その名前はなぜか明治6年の時点から講習所の「職員一覧」の中にある(林の督校任命は明治6年7月19日付)。

つまり、新川県小学教員講習所の「職員一覧」は、講習所設立以前から教員講習の任にあたっていた教員も含んでいるものと思われる。さらに、分教場の教員が、本校の教員と区別されることなく混じっているようだ。実際、新川県講習所規則の定める教員定員は10名で、名簿記載の人数(12名)と合わない(ただし、この差の2名が誰であるかは確定できない)。なお、分教場の教員であった時期があることがはっきりしている教員には、瀬川の他に、藤澤清風(魚津町分教場)などがいる。

新川県講習所の分教場は、最初北新町と福野村に設けられ(明治6年)、続いて魚津町、富山船橋今町、高岡片原横町(明治7年)にも設置。県内で合計5か所にものぼったが、明治8年8月には富山藩の穀倉跡に移転・統合された。

2008年9月 4日 (木)

林慶作

林慶作

伏木小学校の二代目校長(在職明治6年7月~明治7年3月)・新川県講習所創設期の教員。基本的な英学の素養があったと考えられる。

林は信濃国上田町士族。伏木小学校初代校長吉田五十穂(加賀国大聖寺町士族・在職明治6年2月~明治6年6月)の後を受け、同校校長に月俸25円で任命された(藤井文書「新川県学務掛通達」明治6年7月19日付)。当時としてはかなりの高給であるが(三代目校長伊藤珍英は月俸10円)、これは伏木小学校を含め近隣小学校の教員講習を命じられていたことに加え、吉田退任後の同校における英語教育の継承と、近代化(欧米化)の完成が期待されていたからである(野村範家『伏木小学校沿革史巻一』)。伏木小学校退任後は、明治6年10月に設立されたばかりの新川県講習所に勤務し、県下の小学校教員志望者の指導育成にあたった。

林が基本的な英学の素養を持っていたことは、藪波浄慧の自叙伝(『富山農会報』明治35年5月・藤田天民『中越明覧』所収)や林自身の著作物(『高等小学読本』(明治25年刊))、朝日文書(「『訓蒙地理問答』版権御願」・勝山敏一『活版師はるかなり』所収)等から推定できる。中でも藪波は、師の野上文山の死後「伏木学校長林慶作君に従ひて洋書を学びたるに氏亦富山県講習所に転任せらる」と書いており、林が英語の素養を持つ人物であることが広く知られていたことが伺われる。ただし、吉田校長の在職時に大量に発注された『ウイルソン第1・2リーダー』、『パーレー万国史』、『英吉利文典』、『ピネオ氏文典』、『英学階梯』等が使いこなせるような高いレベルであったかどうかは確証がない。これらの書物は生徒貸出用の教科書だが、そもそも当時は上等科まで修める生徒がほとんどおらず、英語の授業は短期間で廃止になったからである。

なお、林自身の学歴は現時点ではっきりしないが、信州上田の出身であるなら、洋学を学ぶ機会は十分あったと考えられる。新川県学務掛によって伏木小学校校長に任命された形が取られているが、実際には、吉田の後を託すに足りる人物として、藤井能三がスカウトしてきたものであろう。

2008年6月19日 (木)

三人の中島外成

三人の中島外成

致遠中学校(明治10年11月7日開校、13年2月休校)の校長を勤めた中島外成はいかなる人物で、どのような教科を教えていたかはほとんどわかっていないが、おそらく英学とは無関係だっただろう。

致遠中学休校後の中島の正確な足取りはわからないが、京都に二人の同姓同名の人物がいた記録が残っている。いまのところ、両者ともに致遠中学元校長の中島と同一人物であるという証拠は見つかっていないが、もし同一人物ならば、担当科目などを知る大きな手がかりになるだろう。

そのうちの一人は、現在の京田辺市で、明治14年頃に1年間だけ「南山義塾」という私立中学校の校長を勤めていた中島外成である。この学校は、地元の民権活動家たちが中心となって設立したいわゆる義塾で、新島襄が開校式に訪れるなど、民権運動史上にも大きな役割を果たしたとされる。ちょうど、越中高岡の越中義塾と、設立時期も性格も非常に似通っている。ただし、越中義塾とは違い、洋学を主体とした学校ではなく、主として漢学や歴史、数学などを教えた。また、設立者たちについては色々なことが語られているが、最初の校長を勤めた中島の果たした役割についてはほとんど論じられることがない。この点は、越中義塾の最初の英学教師であった和田正脩と同じである。(以上、「文部省年報明治15年」「京都府誌」等を参考)。

もう一人の中島外成は、明治17年頃から京都府の土木技手を勤めていたとされる人物である。当時の「官員録」には「石川県士族」とあることから、個人的には同一人物である可能性が高いと思う。ただ、官吏としての給料は学校長のそれに比べ相当見劣りするので、実は全く別人なのかもしれない。

さて、もし三人が同一人物であるとすれば、中島外成は英学教師ではなく、やはり算術や測量に関連した科目を教えていたことになりそうだ。このブログの趣旨からもはずれることになるので、いまはこれ以上は追求しないが、本当に石川県士族なら、もう少し詳しいプロフィールもそのうち自然とわかってくるかもしれない。

2008年6月16日 (月)

浅田世良

浅田世良

越中富山で最初の公立正則中学校であった致遠中学が、富山師範学校内に開校したのは明治10年11月7日のこと。6年制の石川県内(当時)唯一の正則中学であったが、財政難を直接の原因とする生徒の著しい減少により、明治13年2月、開校より三年足らずで休校となった。しかし、同校の教則には英語が正課として盛り込まれ、加えて希望者を対象に英語を速習できる専修科が設けられていたという、実際はともかくとして、少なくとも紙の上では非常な充実ぶりであった(「文部省年報明治11年」等)。ゆえに、明治2年の富山藩変則英学校(英学教師森本弘策)以来、英語を正式に教授した越中富山最初期の学校の一つとして、大いに関心を持たないわけにはいかない。

さて、上のような問題意識から、私は先日以来、この致遠中学の教師が誰で、何をどう教えていたかを調査している。これまでのところ、最大で6名(設立時)いたとされる教師のうち、名前とその大まかなプロフィールが明らかになったのは半数の3名にとどまっている。

致遠中学の教師が誰であったかを知る手がかりのひとつは、同時期の富山師範学校の教員名簿である。師範学校の教員のうち数人が致遠中学と兼務していたことはよく知られた事実だからだ。もちろん、富山師範学校で英語が正課として取り入れられるのは、富山県中学校が設立された明治18年以降のことであるから、英語の専任教師が名簿に載っていることを期待することはできない。しかし、明治十年代ともなれば、富山師範学校にも近代的な学校で洋学を学んだ教師が増えてきている。専門科目のほかに、基礎的な英語ぐらいは教えることができた教師がいてもいいのではないだろうか。

。。。とまあ、大上段に振りかぶってはみたものの、実はたいした話ではありません。すみません。

で、表題の説明です。これは、明治11年から14年まで富山師範学校(当時石川県第二小学師範学校)に勤めていたとされる教師の名前なのですが、明治7、8年に東京で「測角便蒙」(画像はここ)という、測量学の教科書を出している、同姓同名の人物がいるって話なんです。

この「測角便蒙」は、「自序」によると、Janesという英国人の書いたTrigonometryという本の翻訳だとのことです。"Trigonometry"という原題からもわかるように、いわゆる三角法(サイン、コサイン、タンジェントってやつですね)の教科書で、数学が得意な高校生でもなかなか簡単にはこなせないような、かなり高度な内容になってます。実際、この本も最初は文部省の認可を受けて出版されたのですが、のちに陸軍省の要請で再刻され、測量学の教科書として陸軍文庫に加えられています。

こういう本を訳せるような人であれば、致遠中学で英語を教えるぐらいは十分できたと思うのですが。。。困ったことに、こちらの浅田さんは明治8年12月、13年11月、14年9月、17年7月というふうに、陸軍省で測量の仕事に従事していた記録があるんですね(アジア歴史資料センター)。ですから、単なる偶然の一致でしかないのかもしれません。

ただ、こういう名前がそんなにたくさんあるとも思えませんし、私の持っている富山師範学校の教員名簿の任免履歴はかなり不正確なもので、半年や一年ぐらいのずれはいくらでもあります。14年に退職したと書いてあっても、実際には前年末であった可能性は大いにあります。加えて、あの田中貞吉もそうでしたが、一時的に国の役人を辞めて地方の師範学校の教員になるという例は、この時代には決して珍しいことではありませんでした。

そんなわけで、富山師範教員の浅田世良と陸軍省測量技師の浅田世良が本当に同一人物だったら面白いのに、と最近考えているのですよ。

2008年5月25日 (日)

松岡直忠の履歴書

松岡直忠の履歴について整理

 松岡直忠は旧富山藩士松岡織衛の二男と伝えられるが、本人提出の履歴書によると、族籍は富山県平民とある。安政6年(1859)10月、越中国上新川郡豊川町(現富山市域)に生まれた。
 松岡は早く父を亡くしたため、家庭には学資の余裕などなかったが、明治6年、15歳にして学問の志やみがたく上京。東京湯島の「共慣義塾」に入学して英学を修める(旧南部藩主南部利恭によって設立された、当時最も進んだ英学校のひとつ。原敬、新渡戸稲造、犬養毅、尾崎行雄らがここで学んでいる)。
 明治7年5月、家庭の事情でいったん帰郷するが、明治8年10月に家出をして再び上京すると、しばらく県出身の士族の家で下僕として働いたのち、その給金を学資に「九段学舎」に学ぶ。
 明治9年12月、九段学舎に通う親友の父親の援助を受けて、共慣義塾に復学することができた。しかし、上京1年あまりで病に倒れ、再び故郷に帰る。ほどなくして病は癒えたが、家事を手伝うため再上京の希望を当面断念し、私塾「立志学舎」を富山に設立。英数二科目を教授した。
 この立志学舎の塾長を勤めていた明治10年6月には、数学入門書の良書が少ないことを憂い、『数学例題』を翻訳し、翌年8月までに、私費にて全5巻を出版(巻1、2のみ富山県立図書館蔵)。
 明治10年10月22日、富山最初の郡立中学校である致遠中学校四等助教に任ぜられ、翌明治11年3月8日付で三等級に昇格した。しかし、この間に富山の富豪中田清兵衛から学資の援助を受けることができることになり、同年7月18日付で致遠中学校を退職。上京し、再々度共慣義塾に入学する。
 明治12年7月、三度目の正直で、ついに共慣義塾を卒業。同年10月には慶應義塾に入学し、こちらも明治13年7月に卒業。帰郷直後の明治13年11月27日、富山医学所兼富山小学師範学校教授(月俸22円)に任ぜられる。
 しかし、明治14年(1881)3月23日に辞職。富山教育会や、茶話会を起こし、地方人士の啓発に尽力するようになった。同4年6月、富山町で初めての政談演説会を主催(なお、福沢諭吉は、松岡の政談演説会の企てについて、くれぐれも粗暴な言辞を吐かないようにと、書簡で松岡を戒めている)。
 明治16年4月には高岡の越中義塾の英学教師に招かれ、10月までここで教えた(この間、たびたび福沢諭吉に高岡の様子を報告している)。同年10月5日付で富山県御用掛(准判任月俸25円)に任命され、衛生課衛生掛勤務となる。
 県の官吏としては、明治17年3月24日付で通常県会答弁委員(衛生掛担当)に任じられ、更に同年4月16日、京都府へ出張を申し付けられるなどしている。
 明治21年、文吉と改名。のち富山銀行、三井銀行等に勤務したほか、第十二国立銀行の支配人として富山で活躍している。

参考:「松岡直忠履歴書」「慶應義塾入社帳」「福沢諭吉書簡集」「慶應義塾百年史」「立志美談」

2008年5月19日 (月)

石谷了斎

石谷了斎

あー、申し訳ない!致遠中学の教師の一人石谷了斎は、結構著名な人物だった。

石谷は旧富山藩士。廣徳館の元教官で、昌平校に学んだ人物である。明治2年11月以後、富山藩藩学校文学二等教師。廃藩置県後、家塾を開いて師弟を指導。また、岡田呉陽、松田煌と共に変則中学校を設立した。明治7年に新川県講習所三等助教に任ぜられ、明治10年には致遠中学ならびに富山師範学校の教師を兼務した。致遠中学教師就任時の年齢は58歳。明治15年10月10日病没。

藤澤清風

藤澤清風

早川勇氏の『日本の英語辞書と編纂者』(春風社刊、2,006年)は、日本における英語辞書の歴史的研究には絶対に欠かすことのできない基本文献である。この中に、越中富山最初の教員養成施設として知られる新川県講習所の初代教員の一人であった、藤澤清風が著した辞典が登録されていることに気付いたのは、つい先日のことである。

この辞書とは、明治8年6月に刊行された『万国地名誌』で、出版地は富山の応機械館。出版者は聚星堂(富山:守川吉兵衛)。上下それぞれ100丁、57丁の、比較的葉数の多い和装本である。国立国会図書館のマイクロフィッシュに収められており、ただちに実物を見ることはできない。内容は、題名の通り、世界の国名を集めた辞典だが、残念ながら、アルファベットは併記されておらず、原語から直接翻訳したものであるか否かは不明。過去に出版された翻訳本等の焼き直しである可能性は否定できない。

藤澤はまた、明治8年4月に『万国地図』という世界地図帳も編纂、出版している。やはり出版地は富山で、出版者は西尾教政。7枚の小型地図が収められており、こちらは国立国会図書館の近代デジタルライブラリーで画像を見ることができる。やはり種本の正体は不明だが、この当時広く読まれていたミッチェルの地理書などを元にしたものではないだろうか。ちなみに、Mitchell's new school geography.の翻訳書の一つ『万国地誌階梯』は、越中福光出身の松村精一郎の訳で、やはり明治8年に刊行されている(明治19年改訂版の画像はこちら)。

藤澤が英学の素養を持っていたかどうかは定かではない。またこれらの書物の出版も、地理学の研究書としてではなく、教員講習所での教科書として使用することを意図したものであろう。しかし、当時の講習所は、越中富山における事実上の最高学府であった。少なくとも、広い意味での洋学を修めていた、当時の越中で最高の知識人の一人であったと言っていいのではないだろうか。

『日本の英語辞書と編纂者』には、収録された辞書の編纂者のすべてについて、経歴や業績が掲載されている。しかし、藤澤については上記2冊の紹介以外何も書かれていないので、やはりほんのわずかではあるが、私の手持ちの情報をここに補足しておこう(とはいっても、もちろんこのことで早川氏の著作の価値がどうこうというわけでは決してない)。

藤澤清風は旧富山藩士で嘉永5年(1852)の生まれ。父はかつて廣徳館学正を勤めたことのある、御細工所支配方の藤澤省吾。清風は明治2年(1869)12月29日、17歳で富山藩の藩学校教師(文学四等教師試補、史生等級)となる(ちなみに、この年の10月、富山藩は箱館戦争降伏人で富山藩預かり人の森本弘策を英学教師として招き、変則英学校を設立している)。藩政改革に伴い明治3年10月3日付でいったん職務を免じられ、そのしばらく記録は途絶えるが、21歳の時、明治6年10月3日の新川県講習所の発足と同時に、最初の教員の一人として迎えられた。

洋学に関心が高かったと思われる藤澤だが、講習所開設に先立つ明治6年7月に、東京府小学教員講習所に派遣され新しい教授法を修めて帰県した、変則中学校の生徒6名(派遣されたのは8名)には含まれていない(なお、講習所設立初年度の教員のうち半数は「教員」に、残り半数は「五等訓導」に分類されていたが、東京に派遣された変則中学校の生徒たちは全員後者に割り当てられていた)。

藤澤は、明治7年4月には魚津町の明理小学校で開催された教員講習に派遣されるなど、2年近くの間職務を忠実に果たしていたが、明治8年9月に新川県講習所を退職した。その後の足取りや没年等は不明。ただし、明治9年4月には、『書柬屑玉』(しょかんせつぎょく)を環翠堂から出版し、引き続き著作に励んでいた(合本、前編49丁、後編16丁)。これは書簡用語・文例集で、いわゆる一種の往来物である。本書は藤澤の著作物のうち、唯一、富山県内の公立図書館に所蔵されており、虫食いなどが進んで痛みも激しいものの、実物を手に取ってみることが可能である。

改めて思うに、新川県講習所創立期の教員たちの多くが、あの森本弘策の元同僚であったか、あるいは少なくとも面識があったはずだ。とりわけ藤澤は、その立場から言っても、絶対に森本と言葉を交わしていると私は思うのだが…。本当に何も手がかりは残されていないのだろうか?

2008年5月18日 (日)

明治7年の大学区

【明治7年の大学区】

明治7年頃の大学区は、度重なる府県統廃合の影響もあって、明治5年の「学制」とは大幅に異なるので注意。明治6年に引き続き、2度目の改訂である。

第一大学区

東京府、神奈川県、埼玉県、熊谷県、千葉県、足柄県、新治県、茨城県、橡木県、山梨県

第二大学区

愛知県、濱松県、静岡県、筑摩県、石川県、敦賀県、岐阜県、三重県、度會県

第三大学区

大阪府、京都府、滋賀県、奈良県、堺県、和歌山県、兵庫県、豊岡県、飾磨県、岡山県、名東県、高知県

第四大学区

廣島県、小田県、北條県、鳥取県、島根県、濱田県、山口県、愛媛県

第五大学区

長崎県、佐賀県、三潴県 白川県、鹿児島県、宮崎県、大分県、福岡県、小倉県

第六大学区

新潟県新川県、長野県、若松県、置賜県、酒田県、相川県

第七大学区

宮城県、磐前県、福島県、山形県、秋田県、青森県、岩手県、水澤県

2008年3月22日 (土)

致遠中学校の外国人教師3

このように推測したのは、致遠中学の開校式に、県権令桐山純孝が出席せず、大書記官の熊野九郎が代理で出席していたことや、「富山致遠中学開校祝辞」の中で、当校が第3大区区長らの奮闘努力によって設立されたことが繰り返し強調されているからである。しかし、当時は長州出身の熊野こそが石川県の実質的な最高権力者で、岐阜出身の桐山は飾りに過ぎなかった。したがって、致遠中学が石川県当局によって軽視されていたとは軽々には断定できないかもしれない。

4か月前に閉校となった金沢啓明学校の富山支校は、致遠中学と同様、富山師範学校内に設置されていた。その担当教員は現在のところほとんど不明であるが、そのうち何人かはそのまま致遠中学にも引き継がれたことであろう。

致遠中学の開校当時、金沢啓明学校の外国人教師は、明治7年5月に石川県英学校に採用された英人ヰトワードフレウヰル・ランベルトただ一人で、11年8月まで勤めた(後任は米人ウィトニーで、12年7月帰国)。よって、開校式に出席していた外国人教師はランベルトであるかもしれない。

ただし、こうした兼任という考え方はあまり現実的ではない。現在でこそ金沢富山間は毎日通勤できる距離であるが、明治10年代初頭では無理である。むしろ、外国人教師をきちんと確保できなかったからこそ、致遠中学も先細りになったと言った方がいいのかもしれない。

実際、致遠中学の教員数や生徒数などを記録している「文部省年報」には、外国人教師が勤務していた中学校にはその旨注記があるが、致遠中学については何も書かれていない。ひょっとしたら、「外国人教師」は開校式の時にしかいなかったのだろうか。

さて、致遠中学の校長は、明治7年に富山師範学校に五等教諭として採用されていた中島外成であった。彼は致遠中学の開校とともに専任校長となった。なお、後年、京都で土木技師として活躍した同姓同名の人物がいるが、両者の関係は不明である。

また、助教として、やはり明治7年に三等助教として富山師範学校に採用されていた石谷了斎がいる。彼は開校式の出席者の中で、唯一、漢詩でもって開校の祝辞を述べており、理数系の教師ではないように思われる。

そして忘れてならないのが、松岡直忠(文吉)である。彼は10年12月に致遠中学に採用され(彼にとっては初めての就職)、のちに慶應義塾に学び、改めて富山師範学校の一等訓導として採用され、14年まで勤めた。その経歴から推して、数学と英語を教えることができたと思われる。

いまわかっている教員名はこれぐらいであるが、富山致遠中学の開校時の教員はわずか6名であるから、これでもかなりの割合ではある。

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