このブログのテーマについて

越中富山の歴史に関する、気軽なエッセイを投稿するブログです。日常生活や仕事を通じて見聞きした、地元に伝わる昔の話を、思いつくまま、気の向くままに書いています。

記事の大半は、地元以外の人にとってはまったく関係のない、ほんの些細な話ばかりですが、可能な限り図書館等にある郷土資料によって、裏付けを取るようにしています。

なお、著作権は放棄しておりませんし、学術論文や公的な調査報告書等と違い、内容の正確さについては一切保証できません。したがって、学校のレポートや論文、著書等への無断引用は、どうかご遠慮下さるようお願いします。

2011年5月22日 (日)

鵜坂神社

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100年前の鵜坂神社(『富山県写真帖』)。

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現在の写真。

2011年4月24日 (日)

五福桃林

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『富山県写真帖』の100年前の五福桃林の写真。撮影場所は旧富山市天文台の跡地あたりから東斜面を見下ろしたものであろう。

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呉羽山展望台から見た旧富山市天文台への登り口。ここから城山方向へ向かう道は、おそらく当時は呉羽山を縦断して五時谷の峠道に降りる主要な道のひとつだったが、現在はほとんど使われていない。

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五福桃林の現在の様子(撮影時期は春)。手入れされていない無数の雑木に遮られて、まったく見通すことができない。

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県道から五福桃林の全景を望む(撮影時期は秋)。現在五時谷の一帯は呉羽公園として再び整備されつつある。

2010年8月 7日 (土)

保尻坂

城山東側斜面の、「朝日の滝」の上を登る坂には、「十万石富山御領図」(江戸時代)によると、「保尻坂」という名前がついているようだ。読み方、意味等はわからない。現在もそう呼ばれているかどうかもわからない。

補足

この坂は現在「法尻坂」と呼ばれているようだ。「保」よりも「法」の方が有り難いということか。(笑)

2010年5月23日 (日)

愛本橋

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今日は雨の中愛本橋と堰堤を見てきました。愛本橋は、黒部川が宇奈月の山間部から平野部へと流れ出る出口に架橋され、かつての北陸道の交通の要所でした。 藩政期には全長63メートルもの巨大な木造の刎橋が掛けられ、日本最大級の規模を誇りました。

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黒部川右岸に位置する黒東合口用水の沈砂池です(奥の方)。ここ一箇所で、黒部川扇状地の東半分全体を潤す、灌漑と水力発電のための巨大な用水網です。

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愛本橋の少し上流にある愛本堰堤です。黒部川の水量のおよそ50パーセント(年間およそ14億トン)を、灌漑用水と発電のために取水しています。現在の堰 堤は昭和44年8月の集中豪雨によって破壊された旧堰堤の、上流およそ130メートルに新設されたものです。

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愛本橋から下流を望んでいます。昭和44年8月の集中豪雨では、右岸の旧堤防が決壊し、僕の故郷の村も濁流の直撃を受けました。当時はまだ小学生でした が、遠くの田畑に霧が立ちこめるのを眺めていたら、足元から水がどんどん上がってきて、あっという間に庭先が川になってしまいました。

ちなみに、この写真を見るとおわかりのように、現在の黒部川は左、つまり西に向かって流れていますが、数百年前までは右、つまり東に向けて流れていまし た。僕の故郷の村は旧河道のすぐ脇にあり、洪水によって流れ出た水は、多くがそうした旧河道を海まで流れ下っていきました。

2010年5月 2日 (日)

猪谷へ行ってきました

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富山市猪谷の猪谷川下流にある常虹の滝です。下段の滝(五色ヶ滝)の手前から見たところです。

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本体左側の二筋の滝(夫婦滝)です。これより上にも滝(不動滝)があり、二段になっています。

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右側の滝(蛇歯見の滝)です。左側の夫婦滝よりも水量は少ないですが、落差があり、霧のように水しぶきが落ちてきます。朝には 虹が見られることから、常虹の滝と呼ぶようになったそうです。

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滝から下流の方を見ています。水に勢いがあって、ずっと眺めていても飽きません。

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神通川第二水力発電所のダムです。中央の放水にはとても勢いがあります。

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今日の神通峡は水が碧くて綺麗でした。

2010年2月14日 (日)

坂本竜馬が発機丸を壊した?

司馬遼太郎の「竜馬がゆく」の話なので、話半分に聞いてください。

「竜馬がゆく」の中に、元治元年6月の「池田屋ノ変」の直後、坂本竜馬と勝海舟が、加賀藩の蒸気船に乗って品川から神戸に向かおうとしたところ、竜馬が機 関を酷使してて壊してしまい、下田で幕船翔鶴丸に乗り換えた、という話があります。このとき、怒った加賀藩士たちが竜馬に詰め寄ると、竜馬は悠然と素っ裸 になって褌で体の煤をぬぐい、その迫力に気圧された加賀藩士たちは黙ってしまったというのです。

もしこれが事実に基づいた話であれば、この加賀藩の蒸気船は、藩が文久2年に購入した発機丸ということになり、乗り組みの加賀藩士たちは竜馬と勝に会った ことになり、さらに、この時越中射水郡高木村出身の北本半兵衛が、二人の指揮を受けたことになるはずです。

もっとも、この話は、当時各藩で西洋式の軍艦を購入することが流行していたことについて、「そんなものが役に立つものか」と皮肉るために、司馬が挿入した エピソードです。この場面での勝のセリフも、「加賀百万石といっても汽船ひとつ動かせないというのが日本の現状だ…軍艦ひとつあやつれない人間が、攘夷々 々と駆けまわったところで、どうなるもんでもないよ」と、なかなか手厳しいもので、当時加賀藩が発機丸に掛けていた期待の大きさを考えると、ちょっと気の 毒になってきます。

ともあれ、この話は司馬の創作に過ぎないのかも知れませんが、この時期に発機丸が江戸や大坂を行き来していたのは事実なので、司馬が何を根拠にこの話を書 いたのか、大いに興味のあるところ。誰かご存知の方がおられたらぜひ教えてください。

2010年1月 3日 (日)

桑樹栽培概録

「新川縣誌稿」政治部に、「(明治七年)七月製茶教師三人ヲ宇治ヨリ養蚕教師壱人ヲ信州ヨリ招キ桑茶ニ適スル地味ヲ撰ミ大ニ栽殖セシメントス於是桑茶栽培問答及ヒ栽培概録等ノ書ヲ著述シ之ヲ管内ニ頒行ス」とある。

この中で、「桑茶栽培問答」と呼ばれている本は、実際には「茶園栽培問答」という題名であり、現在県立図書館や国会図書館等数館に所蔵され、画像をネットで閲覧することが可能である。

一方、「栽培概録」と呼ばれる本については、僕はこれまで見たことがなく、本当に存在した本なのかどうか、数年に渡って疑問を持っていたのだが、ごく最近になって「写本」が存在することを知り、胸のつかえが下りたところである。

これは現在京都府立総合資料館が所蔵する、「新川縣下桑茶起業方案書」に「茶園栽培問答」と共に収録された「桑樹栽培概録」であることは、ほぼ間違いないようだ。

同館の書誌によると、出版年は明治8年。原本から書写したのは、当時往来物の著者として著名であった、根岸松雄(号静軒)らであるという。

2009年11月30日 (月)

八ヶ山

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かつて遊園地として賑わった八ヶ山(富山市北代、呉羽山公園)の、現在の姿です。36年ぶりに訪れました。紅葉はピークを過ぎていますが、一面に落ちた木の葉がきれいです。

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八ヶ山の一番高い場所です。呉羽丘陵のいくつかの小山のひとつだということがわかります。立山方向の天気が良ければ、劔もよく見えるでしょう。

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入り口の写真です。地元の案内板には結構大きな公園として描かれていますが、こうして見るとそれほどでもありませんね。

2009年11月23日 (月)

とやま土人形

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来年の干支寅の土鈴です。昨日呉羽山の「とやま土人形工房」で買ってきました。ちょっと見ネコみたいだけど(笑)、なかなか愛嬌がありますね。

とやま土人形は、嘉永年間に始まった、越中富山の伝統工芸品です。毎年買って、干支を全部揃えたいと思っています。

2009年11月22日 (日)

呉羽トンネル西口の迂回路跡

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決して決して鉄道マニアではないのですが…。(笑)

はっきりとは見えませんが、線路の一番奥が呉羽トンネルの西口、つまり、手前が高岡側です。呉羽山北端の富山市北代にあります。

このトンネルができるまで、ごくわずかな期間ではありますが、北陸線は呉羽山の北を迂回していました。この写真の一番奥、トンネルの少し手前で、左(北 側)へ折れて、長岡御廟との間を抜け、田刈屋の仮富山駅に通じていたのです。トンネルの開通は明治41年で、同時に神通川に鉄橋が架けられ、富山駅も現在 の位置に新築されました。

当時は左側(北側)の崖に迂回路の切り通しがあったのですが、現在はまったくその痕跡は残っていません。トンネル工事によって埋められてしまったのではないかと思います。

さて、呉羽トンネルにまつわる一番古い記憶は、ここを蒸気機関車で潜るときに、煙が入らないよう窓を閉めさせられたという思い出です。

昭和40年代初頭までの、小学校に上がる前だったように思いますが、県内では城端線が一番遅くまで蒸気機関車が走っていていたようです。多くは高岡駅で北陸本線に乗り換えましたが、時々、城端から直江津まで、一本で行けた列車もありました。

どの列車だったかまでは覚えていませんが、県内でトンネルというと呉羽トンネルぐらいしかありませんでしたので、こうした記憶が残っているようです。

ちなみに、当時城端線を走っていた蒸気機関車は、現在高岡古城公園に、北陸本線を走っていた方は、富山城址公園に展示されています。これらの機関車の展示 は、子どもの頃から何度も目にしていましたが、自分が乗ったことがある列車だということには、つい最近まで気付きませんでした。

福光駅を発車する時、蒸気機関車の大きな汽笛が怖くて、耳と目をふさいでいた記憶があります。自分にもそんな可憐な時代がありました。(笑)

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